どこか体を悪くしているね。今までこんな事はなかったんだもの。私の体が人と異《ちが》っているのかしら、誰でも恁《こ》うかしら」お島は小野田に体に触らせながら、この頃になって萌《きざ》しはじめて来た、自分か小野田かに生理的の欠陥があるのではないかとの疑いを、その時も小野田に訴えた。
 お島は小野田に済まないような気のすることもあったが、この結婚がこんな苦しみを自分の肉体に齎《もたら》そうとは想いもかけなかった。
 お島は今着ているものの聯想《れんそう》から鶴さんの肉体のことを言出しなどして、小野田を気拙《きまず》がらせていた。男の体に反抗する女の手が、小野田の火照《ほて》った頬《ほお》に落ちた。
 兇暴なお島は、夢中で水道の護謨栓《ゴムせん》を向けて、男の復讎《ふくしゅう》を防ごうとした。

     七十四

 小野田の怯《ひる》んだところを見て、外へ飛出したお島は、何処《どこ》へ往くという目当もなしに、幾箇《いくつ》もの町を突切って、不思議に勢いづいた機械のような足で、ぶらぶら海岸の方へと歩いて行った。
 町幅のだだっ広い、単調で粗雑《がさつ》な長い大通りは、どこを見向いても陰鬱に闃寂《ひっそり》していたが、その癖寒い冬の夕暮のあわただしい物音が、荒《さび》れた町の底に淀《おど》んでいた。燻《くす》みきった男女の顔が、そこここの薄暗い店屋に見られた。活気のない顔をして職工がぞろぞろ通ったり、自転車のベルが、海辺の湿っぽい空気を透して、気疎《けうと》く耳に響いたりした。目に見えないような大道《だいどう》の白い砂が、お島の涙にぬれた目や頬に、どうかすると痛いほど吹つけた。
 お島は死場所でも捜しあるいている宿なし女のように、橋の袂《たもと》をぶらぶらしていたが、時々|欄干《らんかん》にもたれて、争闘に憊《つか》れた体に気息《いき》をいれながら、ぼんやり彳《たたず》んでいた。寒い汐風《しおかぜ》が、蒼い皮膚を刺すように沁透《しみとお》った。
 やがて仄暗《ほのぐら》い夜の色が、縹渺《ひょうびょう》とした水のうえに這《はい》ひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の落著《おちつ》いて来たお島は、腰の方にまた劇《はげ》しい疼痛《とうつう》を感じた。
 暗くなった町を通って、家へ入って行った時、店の入口で見慣れぬ老爺《じじい》の姿が、お島の目についた。
 お島は一言二言口
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