して、資本の運転が止ったところで、去年よりも一層不安な年の暮が、直《すぐ》にまた二人を見舞って来た。
 荒いコートに派手な頸捲《えりまき》をして、毎日のように朝|夙《はや》くから出歩いているお島が、掛先から空手《からて》でぼんやりして帰って来るような日が、幾日《いくか》も続いた。
 仕事の途絶えがちな――偶《たま》に有っても賃銀のきちんきちんと貰えないような仕事に働くことに倦《う》んで来た若い職人は、好い口を捜すために、一日店をあけていた。
 病気のために、中途戦争から帰って来たその職人は、軍隊では上官に可愛がられて上等兵に取立てられていたが、久振で内地へ帰ってくると、職人|気質《かたぎ》の初めのような真面目《まじめ》さがなくなって、持って来た幾許《いくら》かの金で、茶屋酒を飲んだり、女に耽《ふけ》ったりして、金に詰って来たために、もと居た店の物をこかしたり、友達の着物を持逃したりして居所《いどころ》がなくなったところから、小野田の店へ流れて来たのであったが、その時にはもうすっかりさめてしまって、旧《もと》の小心な臆病ものの自分になり切っていた。
 来た当座、針を動かしている彼は時々巡査の影を見て怕《おそ》れおののいていた。そしてどんな事があっても、一切|日《ひ》の面《おもて》へ出ることなしに、家にばかり閉籠《とじこも》っていた。彼は救われたお島のために、家のなかではどんな用事にも働いたが、昼間外へ出ることとなると、釦《ボタン》一つ買いにすら行けなかった。点呼にも彼は居所を晦《くら》ましていて出て行く機会を失った。それが一層彼の心を萎縮《いしゅく》させた。
 今朝も彼は朝飯のとき、奥での夫婦の争いを、蒲団《ふとん》のなかで聴いていながら、臆病な神経を戦《わなな》かせていた。最初その争いは多分夫婦間独自の衝突であったらしく思えたが、この頃の行詰った生活問題にも繋《つなが》っていた。
「私はこうみえても動物じゃないんだよ。そうそう外も内も勤めきれんからね」
 お島はこの頃よく口にするお株を、また初めていた。
 誰があの職人を今まで引留めておいたかと言うことが、二人の争いとなった。
「お前さんさえ働けば、家なんざ小僧だけで沢山なんだ」飽っぽいようなお島が言出していた。どんな事があっても、三人でこの店を守立ててみせると力んでいた彼女が、どんな不人情な心を持っているかとさえ疑
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