出そう」
その中の一人はそう言って、彼女を引立てるような意志をさえ漏した。
「そう一|時《とき》に出ましても、手前どもではまだ資本がございませんから」
お島はその会社のものを、自分の口一つで一手に引受けることが何の雑作もなさそうに思えたが、引受けただけの仕事の材料の仕込にすら差閊《さしつか》えていることを考えずにはいられなかった。
註文が出るに従って、材料の仕込に酷《ひどく》工面《くめん》をして追着《おっつ》かないような手づまりが、時々|好《い》い顧客《とくい》を逃したりした。
「ええ、可《よろ》しゅうございますとも、外《ほか》さまではございませんから」
品物を納めに行ったとき、客から金の猶予を言出されると、お島は悪い顔もできずに、調子よく引受けたが、それを帰って、後の仕入の金を待設けている小野田に、報告するのが切《せつ》なかった。それでまた外の顧客先《とくいさき》へ廻って、懈《だる》い不安な時間を紛らせていなければならなかった。
「堅い人だがね、どうしてくれなかったろう」
お島は小野田の失望したような顔を見るのが厭《いや》さに、小野田がいつか手本を示したように、私《そっ》と直しものの客の二重廻しなどを風呂敷に裹《つつ》みはじめた。
「どうせ冬まで寝《ねか》しておくものだ」お島は心の奥底に淀《よど》んでいるような不安と恐怖を圧しつけるようにして言った。そしてこの頃|昵《なじ》みになった家へ、それを抱《だき》こんで行った。
一日外をあるいているお島は、夜になるとぐっすり寝込んだ。昼間居眠をしておる男の体が、時々|夢現《ゆめうつつ》のような彼女の疲れた心に、重苦しい圧迫を感ぜしめた。
七十二
それからそれへと、段々|展《ひろ》げて行った遠い顧客先《とくいさき》まわりをして、どうかすると、夜遅くまで帰って来ないお島には解らないような、苦しい遣繰《やりくり》が持切れなくなって来たとき、小野田の計画で到頭そこを引払って、月島の方へ移って行ったのは、その冬の初めであった。
造作を売った二百円|弱《たらず》の金が、その時小野田の手にあった。細々《こまごま》した近所の買がかりに支払をした残りで、彼はまた新しく仕事に取着《とっつ》く方針を案出して、そこに安い家を見つけて、移って行ったのであったが、意《おも》いのほか金が散かったり品物が掛《かけ》になったり
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