ていた。
「何だ、そんな顔をして。だから己《おれ》が言うじゃないか、どんな商売だって、一年や二年で物になる気遣はないんだから、家のことはかまわないで、お前はお前で働けばいいと」
小野田はそこへ胡坐《あぐら》をくむと、袂《たもと》から莨《たばこ》を出してふかしはじめた。
「被服の下請なんか、割があわないからもう断然止めだ。そして明朝《あした》から註文取におあるきなさい」
お島は「ふむ」と鼻であしらっていたが、女の註文取という小野田の思いつきに、心が動かずにはいなかった。
「そしてお前には外で活動してもらって、己は内をやる。そうしたら或は成立って行くかも知れない」
「こんな身装《なり》で、外へなんか出られるもんか」お島ははねつけていたが、誰もしたことのないその仕事が、何よりも先ず自分には愉快そうに思えた。
帰るときには、お島のいらいらした感情が、すっかり和《なだ》められていた。そして明日《あした》から又初めての仕事に働くと云うことが、何かなし彼女の矜《ほこり》を唆《そそ》った。
「こうしてはいられない」
彼女の心にはまた新しい弾力が与えられた。
七十一
晩春から夏へかけて、それでもお島が二着三着と受けて来た仕事に、多少の景気を添えていたその店も、七、八、九の三月にわたっては、金にならない直しものが偶《たま》に出るくらいで、ミシンの廻転が幾どもばったり止ってしまった。
最初お島が仲間うちの店から借りて来たサンプルを持って、註文を引出しに行ったのは、生家《さと》の居周《いまわり》にある昔からの知合の家などであったが、受けて来る仕事は、大抵|詰襟《つめえり》の労働服か、自転車乗の半窄袴《はんズボン》ぐらいのものであった。それでもお島の試された如才ない調子が、そんな仕事に適していることを証《あか》すに十分であった。
サンプルをさげて出歩いていると、男のなかに交《まざ》って、地《じ》を取決めたり、値段の掛引をしたり、尺を取ったりするあいだ、お島は自分の浸っているこの頃の苦しい生活を忘れて、浮々した調子で、笑談《じょうだん》やお世辞が何の苦もなく言えるのが、待設けない彼女の興味をそそった。
煙突の多い王子のある会社などでは、応接室《おうせつま》へ多勢集って来て、面白そうに彼女の周囲《まわり》を取捲《とりま》いたりした。
「もし好かったら、どしどし註文を
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