も三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた小《ちいさ》い借金が殖《ふ》えて行ったりした。
「これじゃ全然《まるで》私達が職人のために働いてやっているようなものです」お島は遣切《やりきり》のつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中|忙《せわ》しかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。
近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の空瓶《あきびん》にもう八重桜が生《い》かっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も立退《たちのき》の請求を受けた。
「洋服屋って、皆《みん》なこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った」
終《しまい》に工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、店頭《みせさき》へ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている暢気《のんき》そうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を強《し》いて抑えるようにして笑いかけた。
「何《なあ》に、そうでもないよ」
小野田は顔を顰《しか》めながら、仕事道具の饅頭《まんじゅう》を枕に寝そべって、気の長そうな応答《うけごたえ》をしていた。
お島はのろくさいその居眠姿が癪《しゃく》にさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような木片《きぎれ》を取って、縮毛《ちぢれげ》のいじいじした小野田の頭顱《あたま》へ投《なげ》つけないではいられなかった。
「こののろま野郎!」
お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の頬桁《ほおげた》を、厚い平手で打返さないではおかない小野田に喰《く》ってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。
殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に湧返《わきかえ》っていた。
暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は真蒼《まっさお》になって上って行った。
「あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の見損《みそこな》いです」お島は泣きながら話した。
「どうかして一人前《いちにんまえ》の人間にしてやろうと思って、方々|駈《かけ》ずりまわって、金をこしらえて
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