そくまで廻っているミシンの響や、アイロンの音が、自分の腕一つで動いていると思うと、お島は限りない歓喜と矜《ほこり》とを感じずにはいられなかった。
 劇《はげ》しい仕事のなかに、朝から薄ら眠いような顔をしている乱次《だらし》のない小野田の姿が、時々お島の目についた。
「ちッ、厭になっちまうね」
 お島は針の手を休めて、裁板の前にうとうとと居睡《いねむり》をはじめている、彼の顔を眺めて呟《つぶや》いた。
「どうしてでしょう。こんな病気があるんだろうか」
 職人がくすくす笑出した。
「そんなこって善く年季が勤まったと思うね」
「莫迦《ばか》いえ」小野田は性《しょう》がついて来ると、また手を働かしはじめた。
 色々なものの支払いのたまっている、大晦日が直《じき》に来た。品物でかりた知合の借金に店賃《たなちん》、ミシンの月賦や質の利子もあった。払いのこしてあった大工の賃銀のことも考えなければならなかった。
「こんなことじゃとても追着《おっつ》きこはありゃしない」お島は暮に受取るべき賃銀を、胸算用で見積ってみたとき、そう言って火鉢の前に腕をくんで考えこんだ。
「もっともっと稼がなくちゃ」お島はそう言って気をあせった。

     六十八

 大晦日《おおみそか》が来るまでに、二時になっても三時になっても、皆が疲れた手を休めないような日が、三日も四日も続いた。
 夜が更《ふ》けるにつれて、表通りの売出しの楽隊の囃《はや》しが、途絶えてはまた気懈《けだる》そうに聞えて来た。門飾の笹竹《ささだけ》が、がさがさと憊《くたび》れた神経に刺さるような音を立て、風の向《むき》で時々耳に立つ遠くの町の群衆の跫音《あしおと》が、潮《うしお》でも寄せて来るように思い做《な》された。
 職人達の口に、嗄《か》れ疲れた話声が途絶えると、寝不足のついて廻っているようなお島の重い頭脳《あたま》が、時々ふらふらして来たりした。がたんと言うアイロンの粗雑《がさつ》な響が、絶えず裁板のうえに落ちた。ミシンがまた歯の浮くような騒々しさで運転しはじめた。
「この人到頭寝てしまったよ」
 寒さ凌《しの》ぎに今までちびちび飲んでいた小野田が、いつの間にかそこに体を縮めて、ごろ[#「ごろ」に傍点]寝をしはじめていた。
「今日は幾日《いくか》だと思っているのだい」
「上《かみ》さんは感心に目の堅い方《ほう》ですね」職人がそ
前へ 次へ
全143ページ中87ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング