きつ》けられて行った。
「工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう」
 薄野呂《うすのろ》か何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と愛着《あいじゃく》とがお島に起って来た。
「洋服屋も好い商売だが、やっぱり資本《もと》がなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね」小野田はお島に話した。
「資本《もと》があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、些《ちょっ》とした店で、どのくらいかかるのさ」
「店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、生《なま》やさしい金じゃとても駄目だね」

     六十六

 芝の方で、適当な或|小《ちいさ》い家が見つかって、そこで小野田と二人で、お島がこれこそと見込んだ商売に取着きはじめたのは、十二月も余程押迫って来てからであった。
 そうなるまでに、お島は幾度|生家《うち》の方へ資金の融通を頼みに行ったか知れなかった。小いところから仕上げて大きくなって行った、大店《おおだな》の成功談などに刺戟《しげき》されると、彼女はどうでも恁《こう》でもそれに取着かなくてはならないように心が焦《いら》だって来た。町を通るごとに、どれもこれも相当に行き立っているらしい大きい小いそれらの店が、お島の腕をむずむずさせた。見たところ派手でハイカラで儲《もうけ》の荒いらしいその商売が、一番自分の気分に適《ふさ》っているように思えた。
「田町の方に、こんな家があるんですがね」
 お島はもと郵便局であった、間口二間に、奥行三間ほどの貸家を目っけてくると、早速小野田に逢ってその話をした。金をかけて少しばかり手入をすれば、物に成りそうに思えた。
「取着《とりつき》には持ってこいの家だがね」
 持主が、隣の酒屋だと云うその家が、小野田にも望みがありそうに思えた。
「あすこなら、物の百円とかけないで、手頃な店が出来そうだね。それに家賃は安いし、大家の電話は借りられるし」
 幾度足を運んでも、母親が頑張《がんば》って金を出してくれない生家《うち》から、鶴さんと別れたとき搬《はこ》びこんで来たままになっている自分の箪笥《たんす》や鏡台や着物などを、漸《やっ》とのことで持出して来たとき、お島は小野田や自分の手で、着物の目星しいものをそっち此方《こっち》売ってあるいた。
 もと大秀の兄弟分であった大工が愛
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