自身の心と力を打籠《うちこ》めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、忙《いそが》しいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している最中《さなか》であった。
自分の仕事に思うさま働いてみたい――奴隷のようなこれまでの境界《きょうがい》に、盲動と屈従とを強《し》いられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。
東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日|逗留《とうりゅう》している間に、お島は浅草や芝居や寄席《よせ》へ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。
浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして鉱山《やま》の売買《うりかい》などに手を出していたところから、近まわりを其方《そっち》こっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。
「気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない」
彼は今でもお島をT――市《まち》の方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。
「今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった」お島はそう言って笑って別れたのであった。
男は少しばかりの小遣《こづかい》をくれて、停車場《ステーション》まで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。
東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の放肆《ほしいまま》な遊びに疲れた頭脳《あたま》に、浜屋のことと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。
六十四
「どうです、こんな仕事を少し助《す》けてくれられないでしょうか」と、小野田がそう言って、持って来てくれた仕事は、これから寒さに向って来る戦地の軍隊に着せるような物ばかりであった。
それまで仕売物ばかり拵《こしら》えている或工場に働いていた小野田は、そんな仕事が仲間の手に溢《あふ》れるようになってから、それを請負《うけお》うことになった工場の註文を自分にも仕上げ、方々人にも
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