心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を膝《ひざ》に抱取った。
「寅坊《とらぼう》、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ」
 羊羹の片《きれ》を持たされた子供は、直《じき》にお島に懐《なつ》いた。
「何て色が黒くなったんだろう」姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、可笑《おかし》そうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。
「一口に田舎々々と非《くさ》すけれど、それあ好いところだよ」お島はわざと元気らしい調子で言出した。
「だって山のなかで、為方《しかた》のないところだというじゃないか」
「私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ」
「島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ」
「嘘ですよ」お島は鼻で笑って、「こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の金主《きんしゅ》をしてくれる人もあったのさ」
「へえ、そんな人がついたの」

     六十二

 山の夢に浸っているようなお島は、直に邪慳《じゃけん》な母親のために刺戟《しげき》されずにはいなかった。以前から善く聴きなれている「業突張《ごうつくばり》」とか「穀潰《ごくつぶ》し」とかいうような辞《ことば》が、彼女のただれた心の創《きず》のうえに、また新しい痛みを与えた。
 お島が下谷《したや》の方に独身で暮している、父親の従姉《いとこ》にあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。素《もと》は或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の御者《ぎょしゃ》などに取立られていた良人《おっと》が、悪い酒癖《しゅへき》のために職を罷《や》められて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、少《すこし》ばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送
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