裏通りの方から見送りに来た。
「帰ってみて、もし行《い》くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ」浜屋は切符をわたすとき、お島に私語《ささや》いた。
停車場では、鞄《かばん》や風呂敷包をさげた繭商人《まゆあきゅうど》の姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって畔伝《あぜづた》いに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、S――町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の頭脳《あたま》に遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。
自分を窘《いじ》める好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。
六十一
汽車が武蔵《むさし》の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と夷《なだら》かな田畠や矮林《わいりん》が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が近《ちかづ》くにつれて、汽車の駐《とど》まる駅々に、お島は自分の生命《いのち》を縮められるような苦しさを感じた。
「このまま自分の生家《うち》へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。
「何等かの運を自分の手で切拓《きりひら》くまでは、植源や鶴さんや、以前の都《すべ》ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。
王子の停車場《ステーション》へついたのは、もう晩方であったが、お島は引摺《ひきず》られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の迹《あと》へついて行った。静かな町にはもう明《あかり》がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。
父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た石楠花《しゃくなげ》や、土地名物の羊羹《ようかん》などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。
「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた
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