」は「りっしんべん」に「兄」、第3水準1−84−45、110−8]《そらとぼ》けた顔をして言った。
「それじゃ御父さん恁《こ》うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから忙《いそが》しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」
 お島はそうも言って、父親を宥《なだ》め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり肯《き》かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。
「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ……」お島は腹立しそうに終《しまい》にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を牽着《ひきつ》けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。
「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを此処《ここ》へ呼んできねえ」
 父親は高い声をして言出した。
 廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。
 お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、硝子戸《ガラスど》をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。
「弱っちまうね、御父さんの頑固《がんこ》にも……」お島はそこへ顔を出して、溜息を吐《つ》いた。
「何といったって駄目だもの」
 どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は暫《しばら》く立話をしていたが、するうち※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1−85−32に包摂、111−8]《とき》が段々移っていった。
 浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。
 町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも彼処《かしこ》も咽《むせ》かえるような若葉が鬱蒼《うっそう》としていた。痩《や》せた菜花《なたね》の咲いているところがあったり、赭土《あかつち》の多い禿山《はげやま》の蔭に、瀬戸物を焼いている竈《かまど》の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなそ
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