ともあったが、大抵は薄暗い自分の部屋に閉籠《とじこも》っていた。
夏らしい暑い日の光が、山間の貧しい町のうえにも照って来た。庭の柿の幹に青蛙《あおがえる》の啼声《なきごえ》がきこえて、銀《しろがね》のような大粒の雨が遽《にわか》に青々とした若葉に降りそそいだりした。午後三時頃の懶《だる》い眠に襲われて、日影の薄い部屋に、うつらうつらしていた頭脳《あたま》が急にせいせいして来て、お島は手摺《てすり》ぎわへ出て、美しい雨脚《あまあし》を眺めていた。圧《お》しつけられていたような心が、跳《はね》あがるように目ざめて来た。
五十七
浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。
主人は来れば急度《きっと》湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お終《しまい》に別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から突如《だしぬけ》に出て来たお島の父親をつれて来たのであった。
お島はその時、貰《もら》い子《ご》の小娘を手かけに負《おぶ》って、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を摘《つ》んでやったりしていた。この町でも場末の汚い小家《こいえ》が、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に沁通《しみとお》って仄《ほの》かな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑[#底本では「縁」と誤植]が濃くなって行った。
「東京から御父《おとっ》さんが見えたから、ここへ連れて来たよ」
主人は或百姓家の庭の、藤棚《ふじだな》の蔭にある溝池《どぶいけ》の縁《ふち》にしゃがんで、子供に緋鯉《ひごい》を見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て私語《ささや》いた。
「へえ……来ましたか」
お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。
「いつ来ました?」
「十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが此方《こっち》へ来ている話をすると、それじゃ私《わし》が一人で行って連れて来るといって、急立《せきた》つもんだからな」
「ふむ、ふむ」
とお島は鼻頭《はながしら》の汗もふかずに聞いていたが、「気のはやい御父さんですからね」と溜息をついた。
「それでどうしました」
「今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに引立《ひった》てて
前へ
次へ
全143ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング