した浜屋の前の往来には、よかよか飴《あめ》の太鼓が子供を呼んでいた。
「お暖《あった》かになりやした」
浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。
ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い頸元《えりもと》にそばえる軽い風に吹かれていると、お島は荐《しきり》に都の空が恋しく想出された。
「御父さんから、また手紙が来ましたよ」
人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。
正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり市《まち》の方へも足を遠|退《の》いていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ話《ばなし》をしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。
そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい碌《ろく》でもない噂《うわさ》が、昔《むか》し気質《かたぎ》の老人《としより》を怒らせている事は、その文言《もんごん》でも受取れた。
「どうしましょう」
お島はその度《たんび》に、目に涙をためて溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。
「御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう」
お島はそうも言って笑った。
一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。市《まち》へお島を私《そっ》と住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の生計向《くらしむき》では、それも出来ない相談であった。
一里半ほど東に当っている谿川《たにがわ》で、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も異《あや》しまなかった。月はもう五月に入りかけていた。
五十六
嫁の生家《さと》や近所への聞えを憚《はばか》るところから、主婦《おかみ》の取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。
S――町の垠《はずれ》を流れている川を溯《さかのぼ》って、重なり合った幾箇《いくつ》かの山裾《やますそ》を辿《たど》って行くと、直《じき》にその温泉場
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