て駄目だ。お前ならきっと辛抱ができる」
お島に家へ坐られることが不安であったと同時に、田舎で遣《やり》かけようとしている仕事と、そこで人に囲われている女とから離れることの出来なかった兄の壮太郎は、そう言って話に乗易《のりやす》いお島を唆《そそのか》した。
田舎の植木屋仲間に売るような色々の植木と、西洋草花の種子《たね》などを、どっさり仕込んで、それを汽車に積んで、兄はしばらく住なれたその町の方へ出かけていった。一緒に乗込んだお島の心には、まだ見たことのない田舎の町のさまが色々に想像されたが、これまで何処へ行っても頭を抑えられていたような冷酷な生母、因業《いんごう》な養父母、植源の隠居、それらの人達から離れて暮せるということを考えるだけでも、手足が急に自由になったような安易を感じた。
「みっちり働いて、お金を儲《もう》けて帰ろう」お島はそう思うと、何もかも自分を歓迎するための手をひろげて待っているような気がした。
黝《くろず》んだ土や、蒼々《あおあお》した水や広々した雑木林――関東平野を北へ北へと横《よこぎ》って行く汽車が、山へさしかかるに連れて、お島の心には、旅の哀愁が少しずつ沁《しみ》ひろがって来た。
「矢張《やっぱり》こんなような町?」お島は汽車が可也《かなり》大きなある停車場へ乗込んだとき、窓から顔を出して、壮太郎にささやいた。
停車場には、日光帰りとみえる、紅色《べにいろ》をした西洋人の姿などが見えた。
「とてもこんな大きなんじゃない」壮太郎は、長く沁込んだその町の内部の生活を憶出《おもいだ》していると云う顔をして笑った。その土地では、壮太郎はもう可也色々の人を知っていた。
「どこを見ても山だからね。でも住なれてみると、また面白いこともあるのさ」
汽車は段々山国へ入っていった。深い谿《たに》や、遠い峡《はざま》が、山国らしい木立の隙間《すきま》や、風にふるえている梢《こずえ》の上から望み見られた。客車のなかは一様に闃寂《ひっそり》していた。
四十七
車窓に襲いかかる山気《さんき》が、次第に濃密の度を加えて来るにつれて、汽車はざッざッと云う音を立てて、静に高原地を登っていった。鬱蒼《うっそう》とした其処ここの杉柏《さんぱく》の梢からは、烟霧《えんむ》のような翠嵐《すいらん》が起って、細い雨が明い日光に透《すか》し視《み》られた。思いも
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