はまだ肩で息をしながら、やっぱり突伏していた。
「……お前のようなものに、勝手な真似《まね》をされたんじゃ、商人はとても立って行《ゆき》っこはありゃしないんだからね」鶴さんは、自分がこの家に対する責任や、家つきの前《せん》の内儀《かみ》さんに対する立場などを説立ててから言出した。
「そんな事は、おゆうさんにでも聞いてお貰《もら》いなさい」お島は憎さげに言《ことば》を返したまま、またくるりと後向になった。
四十
返したとも返ったとも決らずに、お島が時々|生家《さと》や植源の方へ往ったり来たりしていた頃には、鶴さんの家も大分ばたばたになりかけていた。
北海道の女の方のそれはそれとして、以前から関係のあった下谷の女の方へ、一層熱中して来た鶴さんは、店のものの一人が所々の仕切先をごまかして、可也な穴を開けたことにすら気のつかぬほど、店を外にしていた。
「子供だけは私《あっし》が家において立派に育ててやるつもりです」
鶴さんは、植源の隠居や嫁の前へ来ると、いつもお島の離縁話を持出しては、口癖のように言っていたが、お島に向ってもそれを明言した。
植源の隠居に委《まか》してある、自分の身のうえに深い不安を懐《いだ》きながら、毎日々々母親に窘《いび》りづめにされていたお島は、ある朝釜の下の火を番しながら、跪坐《しゃが》んでいたとき言《ことば》を返したのが胸にすえかねたといって、母親のために、そこへ突転《つっこか》されて、竃《へっつい》の角で脇腹を打ったのが因《もと》で、到頭不幸な胎児が流れてしまった。
その時お島は、飯の支度をすまして、衆《みんな》と一緒に、朝飯の膳に向って、箸を取かけていた。もう十月の半《なかば》で、七輪のうえに据えた鍋のお汁《つゆ》の味噌《みそ》の匂や、飯櫃《めしびつ》から立つ白い湯気にも、秋らしい朝の気分が可懐《なつか》しまれた。
女を追って、田舎へ行ったきり、もう大分になる総領の姿のみえぬ家のなかは、急に衰えのみえて来た父親の姿とともに、この頃際立って寂しさが感ぜられて来た。食《たべ》かけた朝飯の箸を持ったまま、急に目のくらくらして来たお島は、声を立てるまもなく、そこへ仆《たお》れてしまったのであったが、七月《ななつき》になるかならぬの胎児が出てしまったことに気の附いたのは、時を経てからであった。
一目もみないで、父親や鶴さんの手
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