《ふ》けて来ると、店を片着けにかかっている物音が聞えたりして、鶴さんはやがて茶の間へ入って来た。お島は気持わるく壊《くず》れた髪を、束髪に結直して、長火鉢の傍へ来て坐ってみたりしていたが、頭脳《あたま》がぴんぴん痛みだして来たので、鶴さんが二階へ上って来る時分には、彼女《かれ》もいつか蒲団《ふとん》を引被《ひっかつ》いで寝ていた。
「お先へ失礼しましたよ。何だか気分がわるいので」お島はそう言いながら、呻吟声《うめきごえ》を立てていた。
鶴さんは床についてからも、白い細長い手を出して、今朝から見るひまもなかった新聞を、かさこそ音を立てて、彼方《あっち》かえし此方《こっち》返しして読んでいるらしかったが、するうちに、それを投《ほう》りだして、枕につくかと思っていると、ぱちんと云う音がして、折鞄を開けて、何か取出したらしかった。後は闃寂《ひっそり》して、下の茶《ちゃ》の室《ま》の簷端《のきば》につるしてある鈴虫の声が時々耳につくだけであった。
お島は後向になったまま、何をするかと神経を研《とぎ》すましていたが、今まで懈《だる》くて為方のなかった目までが、ぽっかり開《あ》いて来た。そして、ふと紙のうえを軋《きし》る万年筆の音が、耳にふれて来ると、渾身《からだじゅう》の全神経がそれに錘《あつま》って来て、向返ってその方を見ない訳にいかなかった。
「何をしてるんです、今時分……」
お島はいきなり声を立てて、鶴さんを吃驚《びっくり》させた。鞄のなかには、女の手紙が一二通はみ出しているのが見えた。
鶴さんは、ちらと此方《こっち》を見たが、黙ってまたペンを動かしはじめた。お島はいらいらしい目をすえて、じっと見つめていたが、忽《たちま》ち床から乗出して、その手紙を褫奪《ひったく》ろうとした。
「おい、戯談《じょうだん》じゃないぜ」
鶴さんはそれでも落着いたもので、そっと書かけの手紙を床の下へ押込もうとしたが、同時に、お島の手は傍にあった折鞄を浚《さら》っていくために臂《ひじ》まで這出《はいだ》して来た。
「おい、ちょっと話がある」大分たってから、鶴さんは床のうえに起上って、疲れて枕に突伏になっているお島に声かけた。暴出《あれだ》すお島を押えたために、可也興奮させられて来た鶴さんは、爪痕《つめあと》のばら桜になっている腕をさすりながら、莨《たばこ》を喫《ふか》していた。
お島
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