事しちゃいられないのだっけ。店のものが皆《みん》な私を待っているでしょう」お島は蚊帳《かや》のなかで子供を寝《ねか》しつけている、姉の枕元で想出したように言出した。
「良人《うち》はあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ」
「今度あばれちゃ駄目よ」姉は出てゆくお島を送出しながら言った。
「どうもお騒がせして相済みません」お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。
 外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や山茶花《さざんか》などの木立の多い、その界隈《かいわい》は閑寂《ひっそり》していた。お島の足は惹寄《ひきよ》せられるように、植源の方へ歩いていった。「鶴さんも可哀そうよ」そう言ってお島を窘《たしな》めたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、稚馴染《おさななじみ》のおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。
 大きな石の門のうえに、植源と出ている軒燈《けんとう》の下に突立って、やがてお島は家の方の気勢《けはい》に神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、灯影《ほかげ》一つ洩れていなかった。お島は※[#「※」は「木+要」、第4水準2−15−13、73−15]《かなめ》と欅《けやき》の木とで、二重になっている外囲《そとがこい》の周《まわり》を、其方《そっち》こっち廻ってみたが、何のこともなかった。
 車で家へ帰ったのは、大分おそかった。
「お帰んなさい」
 店のもの二三人に声をかけられながら、車から降りると、奥の方の帳場に坐っている鶴さんの顔が、ちらと見えたので、お島は漸《やっ》と胸一杯に安心と歓喜《よろこび》との溢《あふ》れて来るのを感じたが、矢張《やっぱり》声をかける気になれなかった。
 上ってみると、二階は出ていった時、取散していったままであった。脱棄《ぬぎすて》が投出《ほうりだ》してあったり、蔽《おお》いをとられたままの箪笥《たんす》の上の鏡に、疲れた自分の顔が映ったりした。お島はその前に立って、物足りぬ思いに暫くぼんやりしていた。

     三十九

 お島は二三度|階下《した》へおりてみたけれど、鶴さんは、いつまで経《た》っても、帳場から離れて来る様子もなかった。そのうちに表が段々静になって、夜が更
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