『よくいらっしゃいました、さあこちらヘ』と案内するのに『好みません』と云うので直にそこを去りました。宿屋も、車夫も驚いて居るのです。それはガヤガヤと騒がしい俗な宿屋で、私も厭だと思いましたが、ヘルンは地獄だと申すのです。嫌いとなると少しも我慢致しません。私は未だ年も若い頃ではあり、世馴れませんでしたから、この一国には毎度弱りましたが、これはへルンの極まじりけのないよいところであったと思います。
その頃の事です、出雲の加賀浦の潜戸に参りました時です。潜戸は浦から一里余も離れた海上の巌窟でございます。ヘルンは大層泳ぎ好きでしたから、船の後になり先きになりして様々の方法で泳いで私に見せて大喜びでございました。洞穴に船が入りますと波の音が妙に巌に響きまして恐ろしいようです。岩の間からポタリポタリと滴が落ちます。船頭は石で舷をコンコンと叩くのです。これは船が来たと魔に知らせるためだと申します。その音がカンカンと響きまして、チャポンチャポンと何だか水に飛びこむ物があります。船頭は色々恐ろしいような、哀れなような、物凄いような話を致しました。へルンは先程着た服を又脱ぎ始めるのです。船頭は『旦那そりゃ、いけません、恐ろしい事です』と申します。私も『こんな恐ろしいような伝説のあるところには、何か恐ろしい事が潜んで居るから』と申して諌めるのです。ヘルンは『しかし、この綺麗な水と、蒼黒く何万尺あるか知れないように深そうなところ、大層面白い』と云うので、泳ぎたくてならなかったのですが、遂に止めました。へルンは止めながら大不平でした。残念と云うので、翌日まで物も云わないで、残念がっていました。数日後の話に『皆人が悪いと云うところで、私泳ぎましたが過ありません。ただあの時、ある時海に入りますと体が焼けるようでした。間もなく熱がひどく出ました。それと、あゝあの時です、二人で泳ぎました、一人は急に見えなくなりました。同時に大きな鮫の尾が私の直ぐ前に出ました』と申しました。
松江の頃は未だ年も若く中々元気でした。西印度の事を思い出してよく私に『西印度を見せて上げたいものだ』と申しました。
二十四年の夏休みに、西田さんと杵築の大社へ参詣致しました。ついた翌日、私にも直ぐ来てくれと手紙をくれましたので、その宿に参りますと、両人共海に行った留守でした。お金は靴足袋に入れてほうり出してありまして、銀貨や紙幣がこぼれ出て居るのです。ヘルンは性来、金には無頓着の方で、それはそれはおかしいようでした。勘定なども下手でした。そのような俗才は持ちませんでした。ただ子供ができたり、自分の体が弱くなった事に気がついたりしてから、遺族の事を心配し始めました。大社の宮司は西田さんの知人でありまして、ヘルンの日本好きの事を聞いていますから、大層優待して下さいました。盆踊が見たいと話しますと、季節よりも少し早かったのでしたが、態々《わざわざ》何百人と云う人を集めて踊りを始めて下さいました。その人々も皆大満足で盆踊をしてくれました。尤もこの踊りはあまり陽気で、盆踊ではない、豊年踊だとヘルンが申しました。この旅行の時、ヘルンが『君が代』を教わりまして、私共三人でよく歌いました。子供のように無邪気なところがありました。
二週間許りの後、松江に帰り盆踊の季節に近づいたので、ヘルンと私と二人で案内者も連れないで、伯耆の下市に盆踊を見に参りました。西田さんは京都へ旅を致されました。私共ただ二人で長旅を致したのはこれが始めてでした。下市へ参りまして昨年の丁度今頃赴任の時泊りました宿屋を尋ねて、踊りの事を聞きますと『あの、今年は警察から、そんな事は止めよ、と云って差止められました』との事で、ヘルンは失望して、不興でした。『駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆耶蘇のためです。日本の物こわして西洋の物真似するばかりです』と云って大不平でした。
この時には、到る処盆踊をさがして歩きました。先きに申しました東郷の池のさわぎもこの時の事でした。漸く盆踊を見つけて参ります、と反対に西洋人が来たと云うので踊りそこのけにして、いたずらに砂をかける者がある。あとから謝罪に来ると云うような珍事もございました。出雲に帰りましたのは、八月の末で、京都から帰られた西田さんと三人で旅行の話を致しまして愉快でした。これは一月程の旅行でしたが、この外一日がけの旅はよく致しました。
出雲は面白くてへルンの気に入ったのですが、西印度のような熱いところに慣れたあとですから、出雲の冬の寒さには随分困りました。その頃の松江には、未だストーヴと申す物がありませんでした。学校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ教場に出るだけでした。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着たままで、
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