授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持っていましたが、それは船頭の着る物だと云っていましたが、それを着ていたのです。好みはあったのですが、服装などはその通り無雑作で構いませんでした。
熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩へルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。
又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。
熊本にいました頃、夏休みに伯耆から隠岐へ参りました。隠岐では二人で大概の浦々を廻りました。西郷、別府、浦の郷、菱浦、みな参りました。菱浦だけにも一週間以上いました。西洋人は始めてと云うわけで、浦郷などでは見物が全く山のようで、宿屋の向いの家のひさしに上って見物しようと致しますと、そのひさしが落ちて、幸に怪我人がなかったが、巡査が来るなどと云う大騒ぎがありました。西郷では珍客だと申すので病院長が招待して下さいました。ヘルンはこの見物騒ぎに随分迷惑致しましたが、私を慰め励ますために、平気を装って『こんな面白い事はない』などと申していましたが、書物にはやはり困ったように書いて居るそうでございます。御陵にも詣でました。後醍醐[#「後醍醐」は底本では「御醍醐」と誤植]天皇の行在所の黒木山へも参りました。その側の別府と申すところでは菓子がないので、代りに茶店で、『ゑり豆』を出したのを覚えています。
帰りに伯耆の境港で偶然盆踊を見ましたが、元気な漁師達の多い事ですから、足を踏んでも、手を拍ってもえらい勢ですから、ヘルンはここで見た盆踊は、一番勇ましかったといつも申しました。杵築のは陽気な豊年踊、下市のは御精霊を慰める盆踊、境のは元気の溢れた勇ましい踊りだと申しました。
それから山越しに、伯耆から備後の山中で泊った事をいつも思い出します。ひどい宿でございましたが、ヘルンには気に入りました。車夫の約束は、山を越えまして三里程さきで泊ると云うのでしたが、路が方々こわれていたので途中で日が暮れてしまったのです。山の中を心細く夜道を致しました。そろそろ秋ですから、色々の虫が鳴いて居るのです。山が虫の声になってしまって居るようで、それでしんとして淋しうございました。『この近くに宿がないか』と車夫に尋ねますと『もう少し行くと人家が七軒あって一軒は宿屋をするから、そこで勘忍して下さい』と申すのです。車が宿に着きましたのが十時頃であったと覚えています。宿と云うのが小さい田舎家で気味の悪い宿でした。行灯は薄暗くて、あるじは老人夫婦で、上り口に雲助のような男が三人何か話しています。二階に案内されたのですが、婆さんが小さいランプを置いて行ったきり、上って来ません。あの二十五年の大洪水のあとですから、流れの音がえらい勢でゴウゴウと恐ろしい響をしています。大層な螢で、家の内をスイスイと通りぬけるのです。折々ポーッポーッと明るくなるのです。肱掛窓にもたれていますと顔や手にピョイピョイ虫が何か投げつけるように飛んで来て当るのです。随分ひどい虫でした。膝の近くに来て、松虫が鳴いたりするのです。下の雲助のような男の声が、たまに聞えます。はしご段がギイギイと音がすると、あの悪者が登って来るのではないかなどと、昔話の草艸紙の事など思い出して心配していました。婆さんが御膳を持って上って来ました。あの虫は何と云う虫ですかと尋ねますと『へい夏虫でございます』と云って平気で居るのです。実に淋しい宿で、夢を見て居るようでございました。ヘルンは『面白いもう一晩泊りたい』と云っていました。箱根あたりの、何から何まで行き届いた西洋人に向く宿屋よりも、こんなのがかえって気に入りました。それですから、私が同意致したら、隠岐の島で海の風に吹かれてまだまだ長くいたでございましょう。飛騨の山中を旅して見たい、とよく申しておりましたが、果しませんでした。
神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいと云うのが、私の兼ての望みでした。ヘルンは『あなたは今の東京を、廣重の描いた江戸絵のよ
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