思い出の記
小泉節子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)態々《わざわざ》

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 へルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。ついて間もなく会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で便り少い独りぽっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。
  伯耆の下市に泊って、その夜盆踊を見て大層面白かったと云いますから、米子から船で中海を通り松江の大橋の河岸につきましたのは八月の下旬でございます。その頃東京から岡山辺までは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山また山で、泊る宿屋も実にあわれなものです。村から村で、松江に参りますと、いきなり綺麗な市街となりますので、旅人には皆眼のさめるように驚かれるのです。大橋の上に上ると東には土地の人の出雲冨士と申します伯耆の大山が、遥かに冨士山のような姿をして聳えて居ります。大橋川がゆるゆるその方向へ流れて参ります。西の方は湖水と天とぴったり溶けあって、静かな波の上に白帆が往来しています。小さい島があってそこには弁天様の祠があって松が五六本はえています。へルンには先ずこの景色が気に入ったろうと思われます。
 松江の人口は四万程ございました。家康公の血を引いた直政という方が参られまして、その何代か後に不昧公と申す殿様がありましたが、そのために家中の好みが辺鄙に似合わず、風流になったと申します。
 学校は中学と師範の両方を兼ねていました。中学の教頭の西田と申す方に大層御世話になりました。二人は互に好き合って非常に親密になりました。へルンは西田さんを全く信用してほめていました。『利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆云ってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です』お気の毒な事にはこの方は御病身で始終苦しんでいらっしゃいました。『唯あの病気、如何に神様悪いですね――私立腹』などと云っていました。又『あのような善い人です、あのような病気参ります、ですから世界むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません』東京に参りましても、この方の病気を大層気にしていました。西田さんは、明治三十年三月十五日に亡くなられました。亡くなった後までも『今日途中で、西田さんの後姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした』などと話した事があります。似ていたのでなつかしかったと云っていました。早稲田大学に参りました時、高田さんが、どこか西田さんに似て居ると云って、大層喜んでいました。
 この時の知事は籠手田さんでした。熱心な国粋保存家と云う事でした。ゆったりした御大名のような方で、撃剣が御上手でした。この時には色々と武士道の嗜みとも申すべき物が復興されまして、撃剣とか鎗とかの仕合だの、昔風の競馬だの行われまして、士族の老人などは昔を思い出すと云って、喜んでいました。この籠手田さんからも、大層優待されまして、凡てこんな会へは第一に招待されました。
 へルンは見る物聞く物凡て新らしい事ばかりですから、一々深く興に入りまして、何でも書き留めて置くのが、楽しみでした。中学でも師範でも、生徒さんや職員方から、好かれますし、土地の新聞もへルンの話などを掲げて賞讃しますし、土地の人々は良い教師を得たと云うので喜びました。『へルンさんはこんな辺鄙に来るような人でないそうな』などと中々評判がよかったのです。
 しかし、ヘルンは辺鄙なところ程好きであったのです。東京よりも松江がよかったのです。日光よりも隠岐がよかったのです。日光は見なかったようです、松江に参りましてからは行った事がございませんから。日光は見たくないと云っていました。しかし、行って見ればとにかくあの大きい杉の並木や森だけは気に入ったろうと思われます。
 私の参りました頃には、一脚のテーブルと一個の椅子と、少しの書物と、一着の洋服と、一かさねの日本服位の物しかございませんでした。
 学校から帰ると直に日本服に着換え、座蒲団に坐って煙草を吸いました。食事は日本料理で、日本人のように箸で食べていました。何事も日本風を好みまして、万事日本風に日本風にと近づいて参りました。西洋風は嫌いでした。西洋風となるとさも賤しんだように『日本に、こんなに美しい心あります、なぜ、西洋の真似をしますか』と云う調子でした。これは面白い、美しいとなると、もう夢中になるのでございます。
 松江では宴会の
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