ある日その人その書物を返しに参りました。大きい料理屋に案内しました。そして大層御馳走しました。しかし誰でしたか、私今に知らないです』と話した事がありました。
煙草に火をつける時マッチをすりましたら、どんな拍子でしたかマッチ箱にぼっと燃えついたそうです。床は綺麗なカーペットになっていたので、それを痛めるのは気の毒だと思いまして、下に落さぬようにして手でもみ消したそうでございました。そのために火傷いたしまして、長く包帯して不自由がっていた事がございました。
ヘルンの好きな物をくりかえして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、食物や嗜好品ではビステキとプラムプーデン、と煙草。嫌いな物は、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートやワイシャツ、ニユ・ヨーク、その外色々ありました。先ず書斎で浴衣を着て、静かに蝉の声を聞いて居る事などは、楽みの一つでございました。
三十七年九月十九日の午後三時頃、私が書斎に参りますと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていますから『あなたお悪いのですか』と尋ねますと『私、新しい病気を得ました』と申しました。『新しい病、どんなですか』と尋ねますと『心の病です』と申しました。私は『余りに心痛めましたからでしょう。安らかにしていて下さい』と慰めまして、直に、兼てかかっていました木澤さんのところまで、二人曳の車で迎えにやりました。へルンは常々自分の苦しむところを、私や子供に見せたくないと思っていましたから、私に心配に及ばぬからあちらに行って居るようにと申しました。しかし私は心配ですから側にいますと、机のところに参りまして何か書き始めます。私は静かに気を落ちつけて居るように勧めました。ヘルンはただ『私の思うようにさせて下さい』と申しまして、直に書き終りました。『これは梅さんにあてた手紙です。何か困難な事件の起った時に、よき智慧をあなたに貸しましょう。この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊ん
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