で下さい。如何に私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです』
私は『そのような哀れな話して下さるな、そのような事決してないです』と申しますと、へルンは『これは常談でないです。心からの話。真面目の事です』と力をこめて、申しまして、それから『仕方がない』と安心したように申しまして、静かにしていました。
ところが数分たちまして痛みが消えました。『私行水をして見たい』と申しました。冷水でとの事で湯殿に参りまして水行水を致しました。
痛みはすっかりよくなりまして『奇妙です、私今十分よきです』と申しまして『ママさん、病、私から行きました。ウイスキー少し如何ですか』と申しますから、私は心臓病にウイスキー、よくなかろうと心配致しましたが、大丈夫と申しますから『少し心配です。しかし大層欲しいならば水を割って上げましょう』と申しまして、与えました。コップに口をつけまして『私もう死にません』と云って、大層私を安心させました。この時、このような痛みが数日前に始めてあった事を話しました。それから『少し休みましょう』と申しまして、書物を携えて寝床の上に横になりました。
そのうちに医師が参られました。ヘルンは『私、どうしよう』などと申しまして、書物を置いて客間に参りまして、医師に遇いますと『御免なさい、病、行ってしまいました』と云って笑っていました。医師は診察して別に悪いところは見えません、と申されまして、いつものように常談など云って、色々話をしていました。
ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂く事や薬を服用する事は、子供のように厭がりました。私が注意しないと自分では医師にかかりません。ちょっと気分が悪い時に私が御医者様にと云う事を少し云いおくれますと、『あなたが御医者様忘れましたと、大層喜んでいたのに』などと申すのでございました。
ヘルンは書いて居る時でなければ、室内を歩きながら、あるいは廊下をあちこち歩きながら、考え事をして居るのです。病気の時でも、寝床の中に永く横になって居る事はできない人でした。
亡くなります二三日前の事でありました。書斎の庭にある桜の一枝がかえり咲きを致しました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。私のうちでは、ちょっと何でもないような事でも
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