した。一々申されませんが、ヘルンが大層親しくしていました方で後にそれ程でなくなったのは、こんな事が原因になって居るのが幾人もございます。日本人の奥様を捨てたとか、何とかそれに類した事をへルンは怒ったのでございます。
 ヘルンは私共妻子のためにどんなに我慢もし心配もしてくれたか分りません。気の毒な程心配をしてくれました。帰化の事でも好まない奉職の事でも皆そうでございました。

 電車などは嫌いでした。電話を取つける折は度々ございましたが、何としても聞き入れませんでした。女中や下男は幾人でも増すから、電話だけは止めにしてくれと申しました。その頃大久保へは未だ電灯や瓦斯は参って居りませんでしたが、参っていても、とても取り入れる事は承知してくれなかったろうと存じます。電車には一度も乗った事はございません。私共にも乗るなと申していました。
 汽車も嫌いで焼津に参りますにも汽車に乗らないで、歩いて足の疲れた時に車に乗るようにしたいと云う希望でしたが、七時間の辛抱と云うので汽車に致しました。汽車と云う物がなくて歩くようであったら、なんぼ愉快であろうと申していました。船はよほど好きでした。船で焼津へ行かれる物なら喜ぶと申していました。
 へルンが日本に参ります途中どこかで大荒れで、甲板の物は皆洗いさらわれてしまう程のさわぎで、水夫なども酔ってしまったが酔わない者は自分一人で、平気で平常のように食事の催足をすると船の者が驚いていたと話した事がありました。
 灯台の番人をしながら著述をしたいものだとよく申しました。

 ある時散歩から帰りまして、私に喜んで話した事がございます。『千駄谷の奥を散歩していますと、一人の書生さんが近よりまして、少し下手の英語で、「あなた、何処ですか」と聞きますから「大久保」と申しました。「あなた国何処です」「日本」たゞこれきりです。「あなた、どこの人ですか」「日本人」書生もう申しません、不思議そうな顔していました。私の後について参ります。私、言葉ないです。唯歩く歩くです。書生、私の門まで参りました。門札を見て「はあ小泉八雲、小泉八雲」と云いました』と云って面白がっていました。
 『アメリカに居る時、ある日、知らぬ男参りまして、私のある書物を暫らく貸してくれと申しますので貸しました。私その人の名前をききません。またその男、私の名前をききません。一年余り過ぎて、
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