も早い方でした。年中、元日もかかさず、朝一時間だけは長男に教えました。大学に出て居ります頃は火曜日は八時に始まりますからこの日に限り午後に致しました。大学まで車で往復一時間ずつかかります。昼のうちは午後二時か三時頃から二時間程散歩をするか、あるいは読書や手紙を書く事や講義の準備などで費しまして、筆をとるのは大概夜でした。夜は大概十二時まで執筆していました。時として夜眠られない時起きて書いて居る事もございました。
壽々子の生れました時には、自分は年を取ったからこの子の行先を見てやる事がむずかしい。『なんぼ私の胸痛い』と申しまして、喜ぶよりも気の毒だと云って悲しむ方が多ございました。
私の外出の日はへルンの学校の授業時間の一番多い日(木曜日)にきめていました。前日にはよく外に出かけてよいおみやげを下さいと親切に注意致しました。『歌舞伎座に團十郎、大層面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のおみやげ』など申します。そしていつも『しかし、あなたの帰り十時十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。如何につまらんです。しかし仕方がない。面白い話で我慢しましょう』と申しました。
晩年には健康が衰えたと申していましたが、淋しそうに大層私を力に致しまして、私が外出する事がありますと、丸で赤坊の母を慕うように帰るのを大層待って居るのです。私の跫音を聞きますと、ママさんですかと常談など云って大喜びでございました。少しおくれますと車が覆ったのであるまいか、途中で何か災難でもなかったかと心配したと申して居りました。
抱車夫を入れます時に『あの男おかみさん可愛がりますか』と尋ねます。『そうです』と申しますと『それなら、よい』と申すのです。
ある方をへルンは大層賞めていましたが、この方がいつも奥様にこわい顔を見せて居られる。これが一つ気にかかると申していました。
亡くなる少し前に、ある名高い方から会見を申しこまれていましたが、この方と同姓の方で、英国で大層ある婦人に対して薄情なような行があったとか申す噂の方がありましたのでヘルンはその方かと存じまして断ろうと致して居りました。しかし、それは人違いであった事が分りまして、愈々《いよいよ》遇う事になっていましたが、それは果さずに亡くなりました。凡て女とか子供とか云う弱い者に対してひどい事をする事を何よりも怒りま
前へ
次へ
全32ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小泉 節子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング