」と誤植]。一国者であった事は前にも申しましたが、外国の書肆などと交渉致します時、何分遠方の事ですから色々行きちがいになる事もございますし、その上こんな事につけては万事が凝り性ですから、挿画の事やら表題の事やらで向うでは一々へルンに案内なしにきめてしまうような事もありますので、こんな時にへルンはよく怒りました。向うからの手紙を読んでから怒って烈しい返事を書きます、直ぐに郵便に出せと申します。そんな時の様子が直に分りますから『はい』と申して置いてその手紙を出さないで置きます。二三日致しますと怒りが静まってその手紙は余り烈しかったと悔むようです。『ママさん、あの手紙出しましたか』と聞きますから、態《わざ》と『はい』と申し居ります。本当に悔んで居るようですから、ヒョイと出してやりますと、大層喜んで『だから、ママさんに限る』などと申して、やや穏かな文句に書き改めて出したりしたようでございます。
 活溌な婦人よりも優しい淑《しとや》かな女が好きでした。眼なども西洋人のように上向きでなく、下向きに見て居るのを好みました。観音様とか、地蔵様とかあのような眼が好きでございました。私共が写真をとろうとする時も、少し下を向いて写せと申しましたが、自分のも、そのようになって居るのが多いのでございます。

 長男が生れる前に子供が愛らしいと云うので、子供を借りて宅に置いていた事もありました。
 長男が生れようとする時には大層な心配と喜びでございました。私に難儀させて気の毒だと云う事と、無事で生れて下されと云う事を幾度も申しました。こんな時には勉強して居るのが一番よいと申しまして、離れ座敷で書いていました。始めてうぶ声を聞いた時には、何とも云えない一種妙な心持がしたそうです。その心もちは一生になかったと云っていました。赤坊と初対面の時には全く無言で、ウンともスンとも云わないのです。後に、この時には息がなかったと申しました。よくこの時の事を思い出して申しました。
 それから非常に可愛がりました。その翌年独りで横浜に参りまして(独り旅は長崎に一週間程のつもりで出かけて、一晩でこりごり[#「ごり」は底本では「こり」と誤植]したと云って帰った時と、これだけでした)色々のおもちやを沢山買って大喜びで帰りました。五円十円と云う高価の物を思い切って沢山買って参りましたので一同驚きました。
 へルンは朝起き
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