予審調書
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)篠崎《しのざき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一箇所|曖昧《あいまい》な

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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     一

「あなたの御心配もよくお察ししますが、わたしの立場も少しは考えて頂かないと困ります。何しろ、規則は規則ですから、予審中に御子息に面会をお許しするわけにもゆきませんし、予審の内容を申し上げることも絶対にできないのですからねえ。こんなことは、私が申し上げるまでもなく十分おわかりになっているでしょうが……」
 篠崎《しのざき》予審判事は、裁判官に特有の冷ややかな調子で、ここまで言って、ちょっと言葉をきって、そっぽをむきながら敷島《しきしま》に火をつけた。判事の表情が、今日は常よりも余計に冷ややかに、よそよそしく、まるで敵意を帯びているようにさえ見えるので、客は何となく底気味が悪いらしい。
「それは、もう、よくわかっておるのですが、どうもせがれ[#「せがれ」に傍点]の奴がかわいそうでしてね。あれ[#「あれ」に傍点]はほんとうに近頃頭をどうかしているのですから、ついつまらんことを口走って、取り返しのつかんようなことになっては大変だと、それが心配になるものですから、こうして毎日のようにうるさくお邪魔にあがるような次第で……嫌疑が晴れて出て来たら、まあ当分海岸へでも転地さして、ゆっくり頭の養生をさせようと思っとるのです。どうも時々妙な発作を……」
 予審判事は、原田老教授の言葉を中途で遮《さえ》ぎって、たしなめるように、それでいて、厳然たる命令的な語調で言った。
「そんなことはおっしゃらん方がよいと思いますね。御子息の身体のことは、専門の医者に診察さして、ちゃんとわかっているのですから。あなたが余計なことをおっしゃると、かえって御子息のために不利益になりますよ。」
 老教授の立場は、駄目と知りつつ藁《わら》すべにでも縋《すが》りつこうとする溺《おぼ》れる者の立場である。
「で医者はなんと申しましたか? やっぱりせがれを精神病と鑑定したでしょうな?」
 おずおずと彼は相手の顔をのぞきこんだ。
「今も申し上げたように、そういう立ち入った御質問は、わたしの立場としてまことに困るので、本来からいうと何もお答えするわけにはゆかないのですが、ちょうど[#「ちょうど」は底本では「ちようど」]今日は、先程予審調書を発表したところですから、それも今晩の夕刊にはのるでしょうし、たびたび御足労をかけたことでもありますから、今日はまあ内密で、なんなりと御質問にお答えすることにしましょう。で、御子息の精神状態のことですが、なに少し興奮していなさるというだけで、別に異常はないという専門家の鑑定です。」
 判事はちらり[#「ちらり」に傍点]と相手の顔を見た。老教授の顔は土のようになって、眼はもう一つところを見つめる力がなく、まるで瞳孔《ひとみ》から亡者のように浮び出している。ただ吾が子を思う一心だけが、彼の身体を椅子にささえ、やっと相手の話をきき、自分でも口を開くだけの余力をのこしているのだ。
「で、せがれ[#「せがれ」に傍点]は、あの途方もない自首を取り消したでしょうな。まるで根も葉もない……見も知らぬ他人を殺したなどという、とんでもない自首を……もっともあんな馬鹿げた陳述を信ずる人は一人もないではありましょうが……」
 老教授は、無知な百姓が、神棚《かみだな》に向って物を祈願する時のような口ぶりでこうたずねた。
「いや、決して取り消されんのみか、何度繰り返してたずねても御子息の答えは判でおしたように同じなのです。信じるも信ぜぬもない、御子息の陳述が事実であることは、疑いの余地がないのです。」
 篠崎予審判事の口元にただようている微笑は、慈愛に満ちた慰藉《いしゃ》の微笑ともとれれば、毒意に充ちた残忍な冷笑ともとれる。老教授は、冷たくなった紅茶をぐっと呑みほした。それが幾分でも興奮した心を落ちつけてくれるたし[#「たし」に傍点]にでもなるかのように。
「では、あなた方は、狂人の言葉をそのままお取りたてになるのですね。事実の証拠よりもとりとめもない狂人の言葉の方を重んじなさるのですね。わたしは正義のために忠告します。裁判所がありもしない証拠を捏造《ねつぞう》するようなことは、まあおひかえになった方がよいでしょう。」
「これはしたり、御子息は今も申し上げたように、全く精神に異状などは認められません。それに、裁判所は決して証拠の捏造などはしません。物的証拠と被告の陳述とを照らしあわせて、この二つが合致した時に犯人を決定するのです。しかしこの二つが合致しているのに、被告の精神状態を疑っていたりしていた日には、裁判はできませんからねえ。でも、こんどの事件は、もともと過失ですから、御子息の罪は大したこともなかろうと私は考えるのです。が、検事の方ではこの事件を過失と認めておらんようでもあり、それに検事の言い分にも聞いてみれば一応道理があるのでしてね……」
「では、せがれが、故意に大それた殺人を犯したとでもいうのですね、過失でさえもないというのですね。それでせがれ[#「せがれ」に傍点]の陳述と物的証拠とやらがぴったり合致しているというのですか? そういうはずはありますまい。」
 老教授の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]筋《せつじゅきん》はぴりぴりと顫動《せんどう》し、蒼ざめた顔には、さっ[#「さっ」に傍点]と血の色がのぼった。それも無理もない、息子の生死のわかれ目なのだ。
「まあ落ちついて下さい。今も申し上げたように、私は過失であるとかたく信じているのです。けれども、あなたが、御子息の陳述と物的証拠とが合致しておるはずがない[#「はずがない」に傍点]とおっしゃるのも妙ですね。あの日は、あなたは早くから大学の方へ出ておられて、死体が発見されたのはそのあとの出来事ですから、現場も御覧になっておらず、御子息の陳述をお聞きになったわけでもないあなたが、はずがない[#「はずがない」に傍点]などとおっしゃるのは少しお言葉が過ぎはしませんか?」
 判事の論理整然たる反駁《はんばく》におうて、教授はまったくとりつく島を失った。額《ひたい》には油汗が一面ににじんでいる。やっとのことで吃《ども》り吃り彼は言いつくろった。
「それは、その……せがれ[#「せがれ」に傍点]は気が変ですから、まさか、半狂人の言うことが事実にあっているとは思われませんので……」
「ところが御子息の陳述は事実とぴったりあっているのです。ただ、ほんの一箇所事実とあわんところがあるのでしてね。それさえわかっておれば、この事件はもう明瞭で、御子息の犯罪は『過失罪』ということにきまるのですが、たった一箇所|曖昧《あいまい》なところがあるために、謀殺《ぼうさつ》ではないかという疑いの余地が生じて来るのです。もっとも、繰り返して申し上げますが、わたしはそんなことは信じません。ただ検事は深くそう信じこんでいるようですし、ことによると、裁判長も検事の言葉を信ずるだろうと思われるのです。何しろ妙な工合になっているものですからねえ。」
 予審判事は、じろりと氷のような視線を老教授に送った。老教授の半白の顎髭《あごひげ》が細かくふるえているのは、五尺もはなれている判事の眼にもはっきりわかった。
「その曖昧な点というのはどういう点ですか?」
「実に妙な話でしてね」と篠崎判事は二本目の敷島に火をつけてから語り出した。口元には、やはり、何とも意味のわかりかねる微笑が消えたり浮んだりしている。彼は話の要所要所に力点をつけて、そのたびに、例の裁判官に特有の、相手の心胆をこおらせるような視線を、聴き手の顔へ投げるのであった。老教授は、船暈《ふなよ》いをした人が、下腹部《したばら》に力を入れて、一生懸命に抵抗しようとすればする程、暈《よ》いが募《つの》って来る時のように、心の平静を失うまいとして、とりわけ、気の弱い彼の持病である脳貧血にかかって倒れるような失態を演じまいとして、肩を張らし、固唾《かたず》を呑み、両手の指をにぎりしめてきいているのであったが、予審判事の剃刀《かみそり》のような視線に触れると、こういう姿勢は一たまりもなくくじけてしまうのであった。
「あなたも御承知の、現場で拘引された第一の嫌疑者ですね。あれは林という男ですがね。この男の申し立てと、御子息の申し立てとが、不思議に食いちがっているところがあるのです。林の申し立てによると、彼はあの朝、殺人の行われた空家――あなたのお宅の隣にあるあなたの持家ですね――その空家に、貸家札がはってあるのを見て、一応中を見せていただきたいとお宅の裏口に洗濯をしていた女中さんに言ったのだそうです。すると、女中さんは、玄関の戸は錠がおりていないから随意にはいって御覧なさいと言ったのですね。何でもこの林という男は、その前の日の夕方にも、その家を見に来たのだそうですが、薄暗くてよくわからなかったので、明くる日に改めて見に来たのだというのです。中へはいって、座敷の間取りや、日当りの工合や、便所や風呂場のあり場所などをしらべてから、台所へはいって見ると、板の間に、あの女の死体がうつぶしになっていて、全身に打撲傷を負い、特に後頭部をひどく打ったものと見えて、髪が血でかたまっており、背中には新しい鋭利な小刀がつきさしてあったというのです。この物凄い光景《ありさま》を見て、とりのぼせたのでしょうな、林は、このまま出たら、てっきり自分に嫌疑がかかると思いこんで、なんとかして、少しでも、死体の発見をおくれさせる必要があると思い、その死体を台所の床下へ匿《かく》そうとしたというのです。その時に、ちょうど、お宅の女中さんの跫音《あしおと》が聞えたので、あわてて飛び出して来たのだそうです。死体を検査した医師の申し立てによると、死体は絶命後すでに十二時間以上を経過しているというのですから、林という男が、その場で兇行を演じたのではないということは明瞭になったわけです。それから、医者の言葉によると、致命傷は、後頭部の打撲傷で、小刀《ナイフ》は余程あとから死体にさしたものらしいということです。」
 彼はちょっと言葉をきった。夕日がカーテンのすきまから宝石のように洩《も》れこぼれている。
「もっとも、これで林の嫌疑がすっかり晴れたとは言えないのです。なぜかというと、彼は前の日の夕方にも一度その家を見に来たというのですから、ことによると、その時に兇行を演じて、明くる日になってから、気が気でないので、兇行の現場を偵察に来たのではないかとも疑えるのです。この種類の犯罪には、こういうことはあり得ることですからな。いや、あり得るというよりも、むしろありがちなことと言った方がよいかもしれません。ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公にしても、ゴリキーの『三人』の主人公にしても、殺人を犯したあとで、わざわざ現場へ見に来ているじゃありませんか?」

     二

 窓からさしこむ夕日は、室内の光景に、一種の神厳な趣を添えている。原田教授は、我が子の生殺与奪の権を握っている予審判事の口から出る一語一語に、はらはらしながら聴き入っていた。判事は相変らず化石のような調子で話しつづける。その落ちついた調子が、きき手の心をますますいらだたせるものである。
「ところが、この事件が翌日の新聞で発表されると、御承知の通り、御子息が、あの女を殺したのは自分だといって自首して来られたのです。そこで林の方は嫌疑はまったく晴れたわけです。何しろ、林に対する唯一の嫌疑は、前の日の夕方、兇行の現場へ来たことがあるということだけなのですからねえ。嫌疑の理由がまことに薄弱なので、実はこちらでももてあましていたとこへ、折も折、ちょうど御子息が自首されたというわけです。なんでも、御子息は、あの家が
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