空いてから、毎晩|就蓐《しゅうじょく》前に、眠《ね》つきをよくするために空家の中へはいって体操をしておられたということで、その晩も、九時頃、玄関の戸をあけてはいろうとすると、どうしたものか、錠もおりていないのになかなか戸が開かない。やっと金剛力を出して開けると、そのとたん[#「とたん」に傍点]に、戸の内側でひどい物音がしてびっくりしたということです。中へはいって見ると、玄関の壁際にもたせかけてあった鉄の古寝台が、戸を開ける拍子に、倒れたための物音だったというのですね。薄暗い軒燈の光ですかして見ると、なんだかその下に黒いものが圧しつぶされているようなので、寝台をもち上げて見ると、その下に、あの女の死体が横たわっていたというのです。あの太い鉄の框《わく》で頭から胸部を滅茶滅茶に打たれて、きゃっ[#「きゃっ」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]とも言わずに即死してしまったらしいのです。これは大変なことをしたと思ったが、それでもまさか即死したなどとは思わないものですから、急いで抱き起そうとすると、身体はもう氷のように冷たくかたくなって、まったく事切れていたということです。そこで御子息は、とりのぼせてしまって、前後のわきまえもなく、あわてて外へ飛び出したのだそうですが、過失とは言いながら、一人の人間を殺した以上は無事ではすむまい。それに、他人《ひと》がきいて果して過失と信じてくれるかどうかもわからぬ。これは何も知らぬ顔をしているに限ると考えて、死体はそのままにしておいて、音のしないようにそっと戸をしめ、何食わぬ顔をして家へ帰って寝たというのです。人間というものは、こうした場合には、えて常識では考えられぬようなことをするものです。明くる朝、林が空家を見に来て、自分が誤って殺した女の死体が発見された時には、御子息も、あやしまれてはならぬと思って、現場へ行ってみたということです。ところが、その日の夕刊でその事件が報道され、無辜《むこ》の林が有力な嫌疑者として拘引されたという記事を見ると、いてもたってもいられなくなって、自首したのだというのです、御子息の自首の内容は、ざっと今申し上げたとおりなのですが、どうですね、この辻褄《つじつま》のあった陳述に御子息の精神の異状が認められるでしょうか?」
 話し手も聴き手もハンカチをとりだして額の汗をふいた。
「これで大体おわかりになったと思いますが」と判事はふたたび語り出した。「林の陳述によると、死体は台所にうつぶしになっていて、背部に小刀《ナイフ》がつきさしてあったことになっていますし、実際現場捜査の結果は林の陳述と一致しているのですが、御子息は、死体を玄関にすてたままあわてて外へ飛び出したとおっしゃるのです……。それだけならよいが、近頃になってから、それもあまりはっきりおぼえてはおらぬ。ことによると、あの時夢中で自分が死体を台所までひきずって行ったのかもしれないと言われるのです。しかも、現場をしらべてみると、明かに玄関の三畳から六畳の居間をとおって台所へ死体をひきずっていった形跡があるのです。その上、まあどうでしょう。死体をひきずったあと[#「あと」に傍点]がていねいに雑巾か何かでふいてあったのです。ああいう際には、無意識でこういう用心深いことをやるのですねえ。よくある例です。しかし、それが事実だとすると、御子息の立場は、よほど不利になって来ますねえ。」
 判事はちょっと言葉をきった。彼は、自分の口から出る一語一語が、きき手の心臓へ鑿《のみ》を打ちこむ程の苦痛を与えていることなどにはまるで気がついていないらしい。あるいは気がついていてわざと相手を苦しませて楽しんでいるようにもとれる。
「そういうわけで、何しろ、肝腎《かんじん》のところで御子息の申し立てが曖昧になっておるので、どうにも困るのです。わたしは、何べんも申し上げたように過失であることを疑いませんが、申し立てに曖昧な部分があるようでは、世間が承知しません。検事は、ちょうど戸をあける時に、寝台が倒れて、その下にちょうど被害者がたっていて、しかも倒れた寝台の框《わく》が被害者の急所へぶっつかるというようなことは、とてもこしらえごととしか考えられんというのです。実際、偶然というものは人間の考えも及ばないような場合をつくり出すこともたま[#「たま」に傍点]にはありますが、ああいう誂《あつら》えむきな話を、裁判長に信じさせるということは、まず、余程困難だとみなければなりませんからねえ。」
 もし篠崎判事の目的が、原田教授を苦しめて苦しめぬくことにありとすれば、彼の目的は完全に達せられたといってもよい。なぜかなら老教授は、ただ身体の中心をとって倒れずにいるのがもうせいぜいのように見えるからである。けれども判事の目的は、相手を苦しめぬくよりも以上であるらしい。少くも、老教授にはそうとよりとれなかった。
 瀕死《ひんし》の病人は、死期が迫るにつれて、恢復の見込みを医師に頻繁《ひんぱん》にたずねるものである。そういう場合に老練な医師は患者を絶望させるようなことは決していわないものである。ところが、篠崎判事は、病人が息をひきとるまで、病人に恐怖を与えつづける無慈悲な医者と同じようであった。
「せがれは無罪にはならんでしょうか?」
 蚊のような細い教授の声に対して判事は答えた。
「無罪どころではありません。過失罪として情状を酌量されるかどうかも、今となっては疑問で、ことによると謀殺と認定されるかもしれないのです。」
「そんなことが、そんな無法な……では林という男の方はどうなるのです?」教授の声は、声というよりも、むしろ悲鳴である。
「あの方はもう問題でないのです。最初から嫌疑の理由が薄弱だったのが、御子息の自首によって、すっかり消滅したのですから。もうすでに予審免訴と決定して、今度の裁判には、被告としてではなく、証人として法廷へ出ることになっているです。」
「では、もうせがれ[#「せがれ」に傍点]を助けるてだて[#「てだて」に傍点]はないものでしょうか?」
「ないこともないかもしれません。が、何しろこの上ぐずぐずしていては大変なことになるかもしれません。御子息は、昨日今日は、審問するたびに、前の証言をとり消したり、ことによると自分が故意に殺したのかもしれないなどと、聞いているわたしさえもひやひやするようなことを口走られるのです。どうやら、あなたがおっしゃったように、ほんとうに精神に異状をきたされたらしいのです。そうしますと、一時精神病院で療養さして、改めて審問をしなおさねばならぬかとも考えておるのです。」
「そ、そんな、そんなひどいことが……精神病院なんて、あの恐ろしい狂人と一緒に、いいえ……せがれは狂人ではありません。」
 教授の身体の中にまだこれだけ興奮する力がのこっているのが不思議である。
 この時、玄関でベルの音がした。判事は女中の取り次ぐのも待たずに席を立って教授にちょっとことわって室を出てゆき、玄関で何やら低声《こごえ》で話していたが、すぐに引き返してきて語りつづけた。
「これはまた意外なことを承わるものですな。御子息の精神に異状があるということは、最初あなたがおっしゃったではありませんか?」
 あわれな老人は一言もなくうなだれている。牢獄か癲狂院《てんきょういん》か、どの道我が子は助からないのだ。彼の頭には陰惨な人生の両極がまざまざと描かれた。暗い考えが夜のように彼の心をとざして来る。彼はおそるおそる口を開いて、まるで腫物《はれもの》にでもさわるように、最後の質問をした。
「ではもう一つだけおたずねしますが、せがれはどのくらいな罪になるでしょう?」
 判事は鼠《ねずみ》を生け捕った猫が、それを味わうまえに十分|弄《もてあそ》ぶときのように、ゆっくりと、落ちつきはらって、まるで他人事《ひとごと》のように語った。
「そうですなあ、過失罪になればたいしたこともありますまいが、謀殺となると――まあその方が可能性が大きいと見なければなりませんからねエ――謀殺となると、まず、九分通り死刑ですかね。」
「判事!」と原田教授は突然、ばねのように立ち上って叫んだ。

       三

 判事は多少の注意力をおもてに現わして膝《ひざ》をすすめた。
 老教授の一時の昂《こう》奮は、しかし「判事!」と叫んだ一語のために、すっかり消えてしまったものと見えて、またもや、菜葉《なっぱ》のようにしおれてしまった。
「判事、もう何もかも白状してしまいます。わたしはまあなんという人間でしょう。この年をして、人に物を教える身でありながら、人もあろうに自分の最愛の子供に罪をきせて、今まで白ばっくれているなんて。わたしです。わたしがあの女を殺したのです。あの女を過《あやま》って殺したのはわたしです。すぐにせがれを放免して、代りにわたしを縛って下さい。判事!」
 どんなに法律ばかりつめこまれた頭だって、このような劇的な告白をきいて平気でおられるはずはないと思われるが、篠崎予審判事は少しも驚いた様子も、感動した様子もない。まるで、ちゃんと予期していたような顔つきである。
「では玄関で殺した死体がどうして台所にうつぶしになって、しかも背中に小刀がさしてあったのですかね。林の陳述には間違いはありますまいが?」
 原田教授は、もうすっかり落ちついて語り出した。口元にはずるそうな微笑さえ浮んでいる。
「その男の陳述は正確です。わたしが、犯跡をくらますために、死体を台所へひきずっていったのです。そうしておけば、誰か家を見にくる人があるにきまっているから、その人に嫌疑がかかると浅墓な考えをおこしましてね。屍体はかたくなっていたので、玄関から座敷へ上げるのに余程骨が折れました。それに石のように冷たくなっていたので、気味のわるいことったらありませんでした。お察しのとおり、死体をひきずってゆく時、畳の上へ血のあとがついたものですから、家へひきかえして雑巾をとって来て、すっかり血をふきとったつもりだったのですが、臨検の警官に発見されたのは天罰です。血のあとをふきとっても、まだ安心ができませんので、それから、わたしは、近所の金物屋から小刀《ナイフ》を一挺買って来て、それを死体の背中へ突きさして他殺と見せかけようと思ったのです。その時ばかりは、さすがのわたしも、手がふるえて、あとから考えると、よく、うまい工合に小刀が突きさせたものだと不思議に思っているくらいです。玄関で殺した死体が、台所へいっているわけはそのためです。せがれは、わたしが玄関で、過失であの女を殺すところまで見ていて、わたしの身代りになってくれたものに相違ありません。ですからその後のことは何も知らないのです。私の申し上げたことをお疑いになるのなら、わたしの家の裏庭の無花果《いちじゅく》の根元を掘ってごらんなさい。血をふいた雑巾が埋めてあるはずです。それから、金物屋を呼んで来て下さい。浅羽屋という家です。きっとあの小刀をあの晩わたしに売ったことをまだおぼえているでしょう。もうこの他に申し上げることはありません。どうぞすぐにせがれを放免してわたしを縛って下さい!」
「もう金物屋を呼ぶ必要はありません。その金物屋は、たしかにあなたにあの晩あの小刀を売ったと言っておるのです。今にここへ来るはずです。さっき玄関でベルが鳴ったでしょう。あの時刑事が金物屋の報告を伝えて来たのです。その時、ことによると、あなたが自白されない場合にはやむを得んから顔をつきあわせるつもりで、呼びにやったのです。」
 何もかも観念した人間には、苦しみもなければ悩みもない。原田教授は落ちついて言った。
「こうわかった以上は、さっそくせがれは放免して下さるでしょうな?」
「御子息はもうすでに予審免訴ということに決まっておるのです。林が免訴になったと言ったのは、実はうそ[#「うそ」に傍点]で、免訴になったのは御子息のことなのです。」
 教授の顔には心からの安心の色が浮んだ。判事は更におだやかに言葉をつづけた。
「ついでにすっかり白状して下さらんですか? 何もかも。」
 教授はぎくり
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