とした。
「白状ですって、この上に? ではこれだけ申し上げても、まだせがれに対する疑いがはれんのですか? はやくわたしを縛って下さい。」
 判事はしばらく腕をくんで考えていたが、やがてまた口を開いた。
「どうしてもこれ以上打ち開けて下さらんなら仕方がありません。では、今おっしゃったことを、玄関の死体を台所へ運んでいって小刀をつき刺されたまでのところを、御面倒ですが、もう一度繰り返しておっしゃって下さい。ちょっと書きとらせますから。」
 教授は判事の質問のままに前の口述を繰り返した。秘書がそれを筆記した。筆記がすむとまた秘書は出ていった。
「いやどうも御面倒でした。これで、やっとこの事件の予審調書がすっかりできあがりました。」
「せがれ[#「せがれ」に傍点]の嫌疑はすっかりはれたでしょうな?」教授の気にかかるのはこの一点だけとなった。
「この事件では、最初から御子息の有罪を疑っている人間が二人あったので、意外にしらべが長びいたわけです」と判事はくだけた調子で語り出した。「その一人は、御子息自身で、もう一人は御子息の父親のあなたです。それ、いまだにあなたは御子息を疑っていなさる証拠に、わたしの言うことをきいて驚いていなさる。あなたは、あの事件の犯人が御子息だと思いこんで、死体を他の場所へうつしたり、死体にナイフをつきさそうとしたりして、それで、御子息の陳述と現場の証拠とをちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]にして、御子息が精神に異状を呈しているという証拠をつくり出そうとしなさったのです。ところが、御子息がどの道無罪になりそうもないと見てとって、今日は、とうとう自分が犯人だというような、大胆な自白をなさったのです。わたしにも子供があります。あなたの親としてのお心持ちはよくわかります。子供のためには、親はどんな馬鹿なことでもするものです……」
 判事の眼にも教授の眼にも涙が浮んだ。
「それにこの事件は最初からわかりきっていたのです。第一、わたしには物理学はわかりませんが、経験から考えてもあの寝台の倒れる力ぐらいで人間は死ぬものではありません。いわんや、起《た》っている人間が、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]とも言わずに即死するわけは絶対にありません。それに、御子息の陳述をきくと死体はかたくなっており、氷のように冷たかったということですが、即死した人間の死体がすぐにつめたくかたくなっているというようなことは、とりのぼせた御子息をだますことはできても、裁判官をだますにはあまりに子供じみています。しかも、その上に、寝台と戸の格子とに妙な糸がくっついており、おまけに、寝台にはあなたと御子息と以外に、もう一人の男の指紋がべたべたついているのです。」
「それは誰の指紋です?」
「犯人の指紋です。もちろん犯人は林なのです。彼は前の晩にちょうど死体の発見された台所で兇行を演じて、嫌疑をそらすために、死体を玄関へもってゆき、玄関の戸をあけると、玄関の壁にもたせてある寝台が倒れるように、寝台と戸とを糸でむすびつけ、女が偶然その下になって死んだように見せかけようとしたのです。そのあとで御子息が玄関の戸をあけられたのでああいうことになり、それをまたあなたが知って死体を台所へつれてゆくというようなことになったのです。」
「そうとは知らず小細工を弄して何とも恐縮に堪えません。」教授は不思議な物語に驚きながら恐縮して言った。
「ところが、あなたの小細工が犯人の自白を早めたのです。というのは、どういう偶然か、天罰か、ちょうど林があの女をステッキで殴り殺した場所へ、寸分たがわず、あなたが、屍体を、その時とそっくりの姿勢でおかれたのです。そのために、明くる日、のそのそ兇行をやった現場へ出かけてくる程大胆な林も、この屍体の移動を見ててんとう[#「てんとう」に傍点]せんばかりにびっくりして、おそろしくなって、床下へかくそうとしたのだそうです。それから、あなたはナイフをさす時に手がふるえてうまくさせたのが今から思うと不思議だとおっしゃったが、あれはさせてはいないで、ただ死体の横に落ちていたということです。林がそれを拾い上げてあまりの恐ろしさに背中へ突きさしたのだということです……」
 あまりの意外な話に聴き手は無言でほっと吐息した。話し手もちょっと言葉をきったが、更にまた語りつづけた。
「林はすっかり白状しました。殺された女の身元も知れています。けれども林のことはあなたには別段関係がないから申し上げますまい、ただ最後におわびしなければならんのは、今日あなたをさんざん苦しめたことです。御子息の有罪を信じきっていなさるあなたに、とても正面から自白させることはできないと考えましたので、あなたを苦しめて苦しめて、『自分が犯人だ』と偽りの白状をしていただき、それをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に玄関の死体が台所へ舞いもどった次第を当事者自身のあなたの口から白状していただこうと思ったのです。その点だけがはっきりしないためにこの事件の予審調書が今までできあがらなかったようなわけです。もちろん、今日調書を発表したというのはうそで、あれは、わたしのいうことをあなたに信じていただくための手段だったのです。」
 宵闇《よいやみ》の迫った室内にぱっと百|燭《しょく》の電燈がついて、客と主人との顔が急に明るく浮び上った。そして二人の心は顔よりももっと明るかったのである。



底本:「新青年傑作選第一巻(新装版)」立風書房
   1991(平成3)年6月10日第1刷発行
初出:「新青年」
   1926(大正15)年1月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2007年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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