すし、ことによると、裁判長も検事の言葉を信ずるだろうと思われるのです。何しろ妙な工合になっているものですからねえ。」
 予審判事は、じろりと氷のような視線を老教授に送った。老教授の半白の顎髭《あごひげ》が細かくふるえているのは、五尺もはなれている判事の眼にもはっきりわかった。
「その曖昧な点というのはどういう点ですか?」
「実に妙な話でしてね」と篠崎判事は二本目の敷島に火をつけてから語り出した。口元には、やはり、何とも意味のわかりかねる微笑が消えたり浮んだりしている。彼は話の要所要所に力点をつけて、そのたびに、例の裁判官に特有の、相手の心胆をこおらせるような視線を、聴き手の顔へ投げるのであった。老教授は、船暈《ふなよ》いをした人が、下腹部《したばら》に力を入れて、一生懸命に抵抗しようとすればする程、暈《よ》いが募《つの》って来る時のように、心の平静を失うまいとして、とりわけ、気の弱い彼の持病である脳貧血にかかって倒れるような失態を演じまいとして、肩を張らし、固唾《かたず》を呑み、両手の指をにぎりしめてきいているのであったが、予審判事の剃刀《かみそり》のような視線に触れると、こういう姿勢は一たまりもなくくじけてしまうのであった。
「あなたも御承知の、現場で拘引された第一の嫌疑者ですね。あれは林という男ですがね。この男の申し立てと、御子息の申し立てとが、不思議に食いちがっているところがあるのです。林の申し立てによると、彼はあの朝、殺人の行われた空家――あなたのお宅の隣にあるあなたの持家ですね――その空家に、貸家札がはってあるのを見て、一応中を見せていただきたいとお宅の裏口に洗濯をしていた女中さんに言ったのだそうです。すると、女中さんは、玄関の戸は錠がおりていないから随意にはいって御覧なさいと言ったのですね。何でもこの林という男は、その前の日の夕方にも、その家を見に来たのだそうですが、薄暗くてよくわからなかったので、明くる日に改めて見に来たのだというのです。中へはいって、座敷の間取りや、日当りの工合や、便所や風呂場のあり場所などをしらべてから、台所へはいって見ると、板の間に、あの女の死体がうつぶしになっていて、全身に打撲傷を負い、特に後頭部をひどく打ったものと見えて、髪が血でかたまっており、背中には新しい鋭利な小刀がつきさしてあったというのです。この物凄い光景《ありさま》
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