を見て、とりのぼせたのでしょうな、林は、このまま出たら、てっきり自分に嫌疑がかかると思いこんで、なんとかして、少しでも、死体の発見をおくれさせる必要があると思い、その死体を台所の床下へ匿《かく》そうとしたというのです。その時に、ちょうど、お宅の女中さんの跫音《あしおと》が聞えたので、あわてて飛び出して来たのだそうです。死体を検査した医師の申し立てによると、死体は絶命後すでに十二時間以上を経過しているというのですから、林という男が、その場で兇行を演じたのではないということは明瞭になったわけです。それから、医者の言葉によると、致命傷は、後頭部の打撲傷で、小刀《ナイフ》は余程あとから死体にさしたものらしいということです。」
 彼はちょっと言葉をきった。夕日がカーテンのすきまから宝石のように洩《も》れこぼれている。
「もっとも、これで林の嫌疑がすっかり晴れたとは言えないのです。なぜかというと、彼は前の日の夕方にも一度その家を見に来たというのですから、ことによると、その時に兇行を演じて、明くる日になってから、気が気でないので、兇行の現場を偵察に来たのではないかとも疑えるのです。この種類の犯罪には、こういうことはあり得ることですからな。いや、あり得るというよりも、むしろありがちなことと言った方がよいかもしれません。ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公にしても、ゴリキーの『三人』の主人公にしても、殺人を犯したあとで、わざわざ現場へ見に来ているじゃありませんか?」

     二

 窓からさしこむ夕日は、室内の光景に、一種の神厳な趣を添えている。原田教授は、我が子の生殺与奪の権を握っている予審判事の口から出る一語一語に、はらはらしながら聴き入っていた。判事は相変らず化石のような調子で話しつづける。その落ちついた調子が、きき手の心をますますいらだたせるものである。
「ところが、この事件が翌日の新聞で発表されると、御承知の通り、御子息が、あの女を殺したのは自分だといって自首して来られたのです。そこで林の方は嫌疑はまったく晴れたわけです。何しろ、林に対する唯一の嫌疑は、前の日の夕方、兇行の現場へ来たことがあるということだけなのですからねえ。嫌疑の理由がまことに薄弱なので、実はこちらでももてあましていたとこへ、折も折、ちょうど御子息が自首されたというわけです。なんでも、御子息は、あの家が
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