髞マ瑣な形式の破壊を特色としてゐる。経済上に於ける自由主義は政治上の自由主義となつてフランス大革命を爆発させたのであるが、その同じ自由主義が、文学にあらはれてロマンチスムとなつて、古典文学の約束、慣例を一蹴したのであつた。ラシイヌの悲劇とユゴオのドラマとを比べて見ると、前者は規則そのもの均斉そのものであるといふ感じを与へるに反し、後者は無秩序そのものであるといふ感じを抱かせる。外見上に於ける無秩序は、内容上に於ける無秩序をも伴つた。そこには、新興階級の奔放な、解放された情熱が、何等の制約をも受けずに跳躍してゐる。
当時ブルジヨア階級にとつては、すぐ未来に『約束の国』『薔薇色の世界』が展開されてゐたのである。彼等は経済的には貴族の地位を奪ひ、政治的にも貴族政治を倒壊して第三階級のヘゲモニイを確立した。そこで観念的にも貴族を征服しなければならぬ。ロマンチスムの文学は、実に文学の戦線に於けるブルジヨア階級の貴族に対する闘争の表白であつたといへる。
もとより闘争といふのは必ずしも文字通りに解する必要はない。ロマンチスムの文学には悲しみや憂欝を主題としたものが決して少くない。それどころか、ロマンチスムの文学は感情の文学であるとさへ[#「さへ」は底本では「さいへ」]いはれてゐる。しかしながら、感情を――それが悲しみの感情であらうとも――心ゆくまで、思ふまゝにうたふことは、古典文学の形式主義に対する反逆であり闘争であるといつて少しも差支へないのである。近松巣林子の世話物は、殆んど情死を主材としてをるに拘はらず、それは正に当時の町人的世界観の勝利をあらはしてゐると見てよいのである。義理と人情との葛藤といふ言葉は、社会学的に言ひあらはせば、旧支配階級のイデオロギイと新興階級のそれとの闘争といふことになる。義理といふのは形式化し硬化した旧世界観の遺骸に外ならず、それが人情と葛藤を生じて来るといふことは、とりも直さず、旧世界観が人心を去つたことを意味するのである。フランス革命が政治に於ける自由のための戦ひであつたやうに、ロマンチスムの文学運動――特にフランスに於けるロマンチスムの文学運動は何よりも先づ文学に於ける自由の戦ひであつた。ユゴオの『クロムウエル』の序文は、この文学革命の烽火であり、宣戦の布告であつた。彼によりて、悲劇はドラマに代られ、性格は血あり肉ある人間に代られた。ボワロ
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