素と水素との化合物である。酸素と水素とは物質性をもつ。しかし水の本質は、酸素や水素ではなくて化合そのものにある。化合そのものには物質性はない。――土田氏の理論のもつ神秘性、非科学性はこの例によりてほゞわかるであらう。
だが、最も主要な点は、土田氏が「文芸[#「文芸」に傍点]に表現せらるべき生活の社会性」として
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第一、個人主義に反対する意味での社会性をもつこと、
第二、無産者性をもつこと、
第三、社会的批判とそれより生れる理想社会の憧憬をもつこと、
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を列挙せられてゐる点である。果してこれ等の事柄が「文芸に表現せらるべき社会性」なのであらうか? これ等のものが「文芸に表現せらるべき」社会性であるならば、それを表現してゐないものは文芸の名に値しないであらうか? たとへば無産者性をもつてゐない文芸は文芸でないのであらうか? 私は、こゝに、氏が(その方法の形而上学的なるが為の)みじめな理論的混乱に陥つてをられるのを発見する。土田氏の理論からいつても、又私たちの理論からいつても土田氏のやうに、文芸に何が表現せらるべきか[#「表現せらるべきか」に傍
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