会主義的となるといふ言ひ表はしかたは、単に現象形態だけに視野を局限した者の言ひ現はしかたであつて、間違ひとはいへないまでも甚だ不完全な言ひ表はしかたである。理論的に正確な言ひ表はし方をしようと思ふならば、私たちは、文学がさうなる[#「さうなる」に傍点]と言はないで、文学がさうさせられる[#「さうさせられる」に傍点]と言ふべきだ。何がさうさせるのであるかといふと、一般的には社会的条件が、もつと直接には、「文芸戦線」のテーゼが明確に言つてゐるやうに「政治闘争の必要」がさうさせるのである。マルクス主義的目的意識が文学に強調され出した所以も、この「政治闘争の必要」のためであつて、この目的意識は断じて政治的意味に於て主張さるべきである。マルキストの目的意識性と大衆の自然成長性といふ言葉は意味をなすが作者の目的意識性と読者の自然成長性といふ言葉は意味をなさない。作者と読者との関係には政治的意味はないからである。この、後の対立を意味あらせる為めには、「文学作家」を「社会主義的文学作家」としなければならぬ。然りとすれば、目的意識の関係するのは、「社会主義的」といふ形容詞の部分だけである。
 そこで「文芸戦線」第四巻第二号のテーゼ中「社会主義文学の芸術価値」の(一)の前半「吾々は芸術家である前に社会主義者でなければならぬ」といふ提言は意味をもつ。だが、その後半をなすところの「社会主義文学は何よりも先づ芸術でなければならぬ!」といふ提言は、社会主義文学の自己否定である。社会主義文学は、さういふ代りに「社会主義文学は何よりも先づ社会主義的でなければならぬ!」と修正すべきである。何故ならば、同じ「文芸戦線」の次の号で正当にも指摘してゐるやうに「政治闘争の必要」がそれを規定するからである。
 このテーゼの筆者は「この二つの命題は決して矛盾しない。何故ならば、社会主義的世界観は、それ自体の中に芸術観を含むものであり、社会主義的芸術観は、現在に於ける最も完全な芸術観であるから」と言つてをられるが、果してこの二つの命題は矛盾せぬだらうか。若し矛盾しないならそれは無意味である。この文句のうちの社会主義といふ文字を資本主義とかへて「資本主義文学は先づ第一に芸術でなければならぬ」としたらどうだらう。それでもこの提言は論理的には立派に成立するではないか。然らば「社会主義的芸術観は現在に於ける最も完全な芸術
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