観である」といふのは独断以外の何物でもない。私たちは、それが最も完全な芸術観であるかどうかなどは問題にしなくともよいのであるし、又たとひ問題としてもそれは解決し得ざる問題である。ただ、資本主義から社会主義への過渡期に於て、政治闘争の必要が、文学を社会主義的たらしむることだけで、社会主義文学の意味は明白であるのだ。
 繰り返して言ふが、文学を社会主義的たらしむるものは、社会の条件である。政治闘争の必要である。そして私は言ふがそのこと自体は文学にとつて禍でもなければ幸福でもない。それによつて文学が完全になるかどうかは、「政治闘争の必要」とは全く無関係である。よし、社会主義文学に、従来の作品(たとへばゾラやトルストイの作品の如き)のやうな傑作が生れないとしても、社会主義文学の存在理由は微動だもしないのである。

         七 芸術のための芸術

 私は、文学の機能を意識の体系化であるといふ見解には反対であるに拘らず、政治闘争の必要が文学を規定することを完全にみとめた。一定の目的意識をもつて文学作品を製作し、これを利用することは、政治闘争の必要上真にやむを得ない。社会の諸条件、――そして進んだ社会に於ては、最も直接に政治闘争の必要が文学を規定することは、つまり、文学の歴史性、階級性をみとめることにほかならぬ。
 しからば、芸術のための芸術といふ言葉は、如何なる意味をももち得ないか。それを考察する前に、芸術のための芸術論を、まるでブルジヨア社会から生れて来る本質的な理論であるかのやうに思ひちがへてゐる人がすくなくないことを私は指摘しなければならぬ。「文芸戦線」のテーゼすらも、そのやうな口吻を洩らしてゐる。だが、かゝる理論は一定の社会条件のもとには常に繰り返される理論であり、その意味に於て、十分存在の理由をもつ説である。それは、政治闘争といふものゝ全面的性質を把握しないで、政治闘争は、議会とか政党とか、社会の一局部に限定された現象であると考へる人々の芸術観を代表する。これ等の人々にとつては芸術文学が、政治闘争にいさゝかでも交渉をもつといふことは理解するのに骨の折れることである。文学は完全に政治の圏外に立ち得ることを彼等は確信してゐる。そしてかゝる人々は、政治的に相闘ふ二つの勢力の中間層に最も多く見出される。今日の社会条件のもとでは小ブルジヨア階級の間にこの理論が最も勢を
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング