るかといふ一点によりてきまる。
 次に、凡ての理論がそれ/″\真理の一部を蔵してゐるのであつて、絶対真理といふものはないといふ説に移らう。「凡ての」といふのは純然たる修辞である。雷を空中電気の現象であるとする説と、ジユピターの怒りに帰する説とは絶対に両立しない。いづれか一つが真理であるか、いづれも虚偽であるかの二つの場合は可能であるが、二つとも真理であるといふこと、二つとも真理の一部を言ひ表はしてゐるといふことは不可能である。
 けれども、「凡ての」といふ形容詞をとり去つてしまへばこの命題は成りたつ。たとえば、生物進化の説明としてのダーウイニズムとラマルキズムとはいづれも真理の一部を蔵してゐると言ひ得る。だが、問題はそれから先に横はる。若し、この両者が、それ/″\真理の一部を蔵してゐるといふことが真理であるならば、私たちのとるべき態度は二通りしかあり得ない。即ち、いづれかの一方に他方の真理を包摂するか、然らざれば、両者をともに脱却して、両者を綜合する一層高い見地にまでのぼるか、そのいずれかである。双方ともに、そつくりそのまゝ認めるといふ態度は無理論主義者の態度であり、理論の否認である。
前へ 次へ
全18ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング