頭と足
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)里村《さとむら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)A新聞の記者|田中《たなか》

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)[#地付き](一九二六年二月号)
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     一

 船が港へ近づくにつれて、船の中で起った先刻の悲劇よりも何よりも、新聞記者である里村《さとむら》の心を支配したのは、如何にしてこの事件をいち早く本社に報道するかという職業意識であった。
 彼は、社へ発送すべき電文の原稿はもうしたためている。しかし、同じ船の中に、自分の社とふだんから競争の地位にたっているA新聞の記者|田中《たなか》がちゃんと乗りあわせて、矢張り電文の原稿は書いてしまって現に自分のそばに、何げない様子をして自分と話をしている。その様子は如何にも自信に満ちた様子である。港には郵便局は一つしかない、従って送信機も一つしかない勘定だ。どちらかさきに郵便局へ着いた方がそれを何分間でも何時間でも独占できるのだ。郵便局は波止場から十町もはなれているという。して見れば体力のすぐれている田中がさきにゆきつくことは必定だ。
 里村は気が気でなかった、波止場はすでに向うに見えている。彼はいても立ってもいられなかった。ことに、自分の体力に信頼しきって悠然とかまえている田中のそばにいるのがもう辛棒できなかった。彼はふらふらとデッキのベンチをたち上って船室へ降りていった。
 田中は安心しきっていた。彼は靴のひもを結びなおし、腰のバンドをしらべ、帽子を眉深《まぶか》にかぶり直し、万が一にも手ぬかりのないように、いざといったらすぐに駈けだすことのできるように用意していた。三四分もたつと里村が船室にもいたたまらぬと見えて、矢張り浮かぬ顔付をしてデッキへ上って来た。競争が切迫するにつれて二人は緊張しきってもう一言もものを言わなかった。

     二

 船はいよいよ波止場へついた。人夫が船を岩壁へひきよせる間も、デッキから波止場へ厚い板でブリッジがかけられる間も二人は、気が気でなかった。
 やがて船客は降船しはじめた。田中は第一に船を降りて、韋駄天《いだてん》のように駈け出した。里村はそれにつづいた。
 田中が郵便局へ息を切らしてついた時には生憎《あいに》く、町の労働者風の男が、電報取扱
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