貴方を愛しつづけているじゃありませんか」
彼は彼女の薄化粧をした素首にキッスした。そしてまた語りつづけた。
「だが私には妻もあり四人の子供もあることを御存知じゃありませんか、そして貴女だって、婚約の夫がおありになるじゃありませんか」
房子は顔をあげた。博士の膝には、涙で大きく斑点ができていた。彼女の眼のまわりは涙ですっかり濡れていた。
「わかりました。妾《わたし》が無理を申し上げました。でも、妾《わたし》どうしても先生のおそばを離れられません。去年の夏でございましたね。八月の十四日でございましたね。午後の四時頃でしたわ。まだ日は高くて暑いさかりでしたもの。先生は海水着をきて砂の中に半分埋まっていらっしゃいましたわ。まるで中学生か何かのように、妾《わたし》なんてお転婆だったでしょう。大きな声で歌を歌いながら先生のすぐそばを通ったのでしたわね。妾《わたし》わざとそうしたのですわ。妾《わたし》の方では先生をよく知っていたのですもの。ブッセの詩でございましたわね、あの時|妾《わたし》がうたっていたのは。
山のあなたに空遠く
さいわい住むと人のいう
ああわれひとりとめゆき
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