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 それから二十日ばかりたった或る日のことである。
 村木博士の邸内には、桜はもうとっくに葉になって、あちこちの庭石のかげに、紅白さまざまの変り種の躑躅が咲いていた。
 雑司ヶ谷の丘の樹々は、豊かな日光を浴びて、一つ一つの青葉が生成してゆくのが肉眼にも見えるように感じられる。こういう日は誰でも一種の自然の威圧といったものに打たれて悩ましくなるものだ。まして甘いなやみをもった青春の男女にとって、五月という季節は、何とも名状しがたい、いてもたってもいられないような、焦燥感を与える。
 婚約の夫がありながら、妻も子供もある人に、ありたけの胸のおもいを寄せるようになった内藤房子は、村木博士の実験室の中で、デスクに向って化学書を読んでいたが、眼はひとりでに窓外の青葉にうつる。心は、いつのまにか、無味乾燥な書物のページを辷《すべ》りぬけて、あらぬかたに乱れ飛ぶのであった。
 村木博士は一寸用事があるというので二日前から鎌倉へ行ってまだ帰って来ない。その留守を房子は実験室にとじこもって、化学式の暗記に専念していたのである。
 彼女は近頃特に現在の位置に不安を感じて来た。彼女は婚約の夫
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