来たら、私はそう主張するより外はない。今の世の中ではこれは妙に聞こえるかも知れない。お前も妙な気がするだろうと思う。しかし、この問題について法律を制定することになると、今の世の中ばかり眼中においているわけにはゆかない。こういうことが頻々と普通に行われるようになった将来の社会を予想しなくてはならん」
 科学者の妻として、夫の仕事の性質をよく理解していた夫人は、博士の説明をきいて尤《もっと》もだと思った。しかし理窟では尤《もっと》もだと思っても肚の虫がおさまらない。
「でも内藤さんには婚約の夫があるというじゃありませんか。あの方だってお困りになるでしょう。それにあの方の夫になる方だって……」
「そりゃ已むを得ん。真理のためには多少の犠牲がはらわれるのは仕方がない。電車や自動車が発明されたために車夫が職を失ったって、車夫のためには気の毒だが、人類全体のことを思えば已むを得ない。そりゃ内藤さんにも、内藤さんの夫になる人にもよく納得して貰わにゃならん」
 博士は時計を見た。八時五分前だった。博士は仕度をして実験室へ出かけて行った。しばらくすると、邸内からピアノが聞えた。ショパンの曲だった。



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