場は定刻前から立錐の余地もなく熱心な聴衆がつめかけていた。朝野の学界の名士新聞記者は演壇の両側にいならんでいた。今日の大会は博士の報告演説だけで独占されることになっていたので、司会者の開会の辞がおわると、村木博士が割れるような拍手を浴びて登壇した。千余名の聴衆の視線は一斉に博士に注がれた。
博士はしずかな語調で、案外に簡単に実験の経過を報告してから、「これからその嬰児を皆様に御覧に入れます」と言いながら、うしろの方へ眼くばせした。
一人の老女が淡紅色の液体のはいった硝子盤をもって来た。中には生後まもない健康そうな嬰児が巧妙な装置で支えられて漬かっていた。
「この子供は八ヶ月でこれまでに成長しました。液の温度と栄養との関係で、子宮内で育つよりも約二ヶ月時間を短縮することができましたが、この時間は六ヶ月ぐらいまで短縮できるだろうと思っています。この子供は男の児ですが、性の決定は胎生期の手術でどうにでもなります。いまのところ一日に数回第二村木液でこの通り沐浴さしていますが、それは環境を急変させた場合の効果を懸念してです。もう一ヶ月もすれば普通の子供と同じようにして育ててゆくつもりです」
博士は報告がすむと老女を手伝って硝子盤を奥へ運んでいった。拍手の音はしばらく鳴りもやまなかった。
鎌倉の別邸では、内藤房子は、朝ばあやが運んで来てくれた牛乳をのんでから、うとうとしているうちに赤ん坊に乳房をふくませたままいつの間にかぐっすり熟睡してしまった。
深い、それでいて何だか気味の悪い眠りから彼女がさめたときはもう暗くなっていた。赤ん坊はまだすやすや眠っていた。彼女は可愛さにたえぬもののように、無心な赤ん坊の額に接吻した。何だか葡萄酒の匂いがするような気がしたが彼女は別にそれには気もとめなかった。
「まあおめざめでしたか、あんまりよくお寝みでしたから、お午餐も差しあげませんで」
と言いながら、ばあやが夕食を運んできた。
「ほほうよく眠っていますね」と言いながら博士もそのあとからはいって来て赤ん坊の顔をのぞきこんだ。そして博士は母親と子供との額に代るがわる接吻した。
* * *
それと同じ時刻に大学の生理学教室では、熱心に試験管をいじっていた阿部医学士がひとりで頓狂な叫びをあげた。
「なんのこった、第二村木液だなんて仰山な名前をつけて、こりゃただ
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