は研究すればいいんだ。研究の結果をどうするかなんてことは実際家にまかせておけばいい。いずれ法律家が何とかきめるだろう。ただ実験につかった[#「つかった」は底本では「つかつた」と誤植]精虫は私のものだから、私は当然父親であるべきだと思うが」
「そうしますと母親がないという事になるので御座いますか」[#「御座いますか」は底本では「御座ますか」と誤植]
 夫人の顔には淋しそうな表情が浮かんだ。博士はそれに気がついて、はげますような調子で言った。
「母親はないことになる。併《しか》し、いまにもう少し科学が進んだら父親のない子もできるだろう。精虫を合成することができたら。しかし、それはたしかに近い将来にできる」
「そうなったら親子の関係は妙なものになってしまいますわね。道徳も義務もなくなって。でも、さしあたって今の法律では、誰か母親にならなければなりませんでしょう」
「最も合理的に言えば、あの実験の手伝いをして貰っている内藤さんが母親になる権利があるんだが……」
 博士は、ちらっと電光のような速さで、夫人の顔を見た。夫人の顔はそれと同じ位の速さでさっと曇った。
「少なくも法律家が私に意見を求めに来たら、私はそう主張するより外はない。今の世の中ではこれは妙に聞こえるかも知れない。お前も妙な気がするだろうと思う。しかし、この問題について法律を制定することになると、今の世の中ばかり眼中においているわけにはゆかない。こういうことが頻々と普通に行われるようになった将来の社会を予想しなくてはならん」
 科学者の妻として、夫の仕事の性質をよく理解していた夫人は、博士の説明をきいて尤《もっと》もだと思った。しかし理窟では尤《もっと》もだと思っても肚の虫がおさまらない。
「でも内藤さんには婚約の夫があるというじゃありませんか。あの方だってお困りになるでしょう。それにあの方の夫になる方だって……」
「そりゃ已むを得ん。真理のためには多少の犠牲がはらわれるのは仕方がない。電車や自動車が発明されたために車夫が職を失ったって、車夫のためには気の毒だが、人類全体のことを思えば已むを得ない。そりゃ内藤さんにも、内藤さんの夫になる人にもよく納得して貰わにゃならん」
 博士は時計を見た。八時五分前だった。博士は仕度をして実験室へ出かけて行った。しばらくすると、邸内からピアノが聞えた。ショパンの曲だった。



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