立ち芸術的部分は下位にたつといふ風に結合されてゐるのである。この結合のしかたをかへることはマルクス主義文学の名に於ては許されないのである。
 このことは多くの実際問題に関連してゐる。たとへば、政治的原理と芸術的原理とを同じ平面に並べて、双方に同じ価値をもたせようと企てるとき、そこに折衷的理論が生れる。ある作家の或る作品は、闘争的精神も、階級的イデオロギイも稀薄であるが、芸術品としては立派な作品であることがあり得る。だがこの場合、如何なる芸術的な価値をもつてしても、マルクス主義文学である限り、闘争的精神の欠如の埋め合せにはならぬであらう。第一義的な、根本的なものを欠いてゐる限り、それはマルクス主義文学の作品としては低く評価されねばならぬであらう。
 又或るマルクス主義者、たとへばトロツキーが、政治的には全く価値のない詩をつくつたとする。河上肇博士が、花か虫かを見て政治と没交渉な俳句を一句詠んだとする。この場合、トロツキーや河上博士がマルクス主義者であるがために、それ等の人の作品が、すべてマルクス主義文学の作品であると考へるのは全くあやまつてゐる。況んや、或る作家が、マルクス主義的芸術団体
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