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註 勝本氏の三田文学に於ける、及び蔵原氏の朝日新聞に於ける論文をさすのであるが、いまそれを参照してゐるひまがないので、私の読みちがひであつたら、両氏にお詫びする次第であるが、私のこの論文は両氏の議論と独立によまれても些しも理解を妨げるものでない。
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 マルクス主義は一の世界観ではあるけれども、最もさしせまつた目的としては、組織されたプロレタリアによるブルジヨア政権の奪取といふ政治の一点に、プロレタリアの凡ての力が集中されることを要求する。だから文学、芸術もこの政治的目的を達するための手段とされねばならぬのである。文学作品は、この視角から見たとき、直接間接の宣伝もしくは煽動の手段としてしか意味がない。これは、政治的に全く正しい解釈である。だから、マルクス主義政党の芸術に関するプログラムに於て、芸術作品の価値は、それがプロレタリアの勝利に貢献する程度の大小によつて評価されねばならぬと規定されることは甚だ当然である。そして、党は、党員たる作家や批評家に、その趣旨を伝達し、また命令することも当然である。芸術は手段ではないとか、文学は宣伝の道具ではないとかいふことを、芸術や文学の立場から絶叫したつて無益である。プロレタリアの解放、勝利といふことが絶対だからである。
 マルクス主義批評家にとつての作品評価の根本規準は、それ故に純然たる政治的規準である。マルクス主義作家及び批評家はまづこの規準を認めなければならない。彼がどんなにすぐれた批評家や作家であつても、この根本規準を拒絶する刹那に、彼はマルクス主義作家でも批評家でもなくなる。何となれば、彼は芸術家であり、批評家である以前にマルクス主義者でなければならぬからである。芸術的価値は、彼にとつては政治的必要に従属せしめられねばならぬからである。
 実際の作品、たとへばチエホフの作品を例にとらう。チエホフがすぐれた作家であつたことはほとんど異論のない事実である。だが彼の作品は、革命の擁護といふ政治的必要からは、好ましからぬ作品であるかも知れぬ。若しさうである場合には、彼の劇がマルクス主義批評家によつて手厳しく批難され、その上演がプロレタリア国家権力によつて禁止されることはあり得る。そしてこの禁止は、政治的に全く正当である。だが、この政治的形勢の変化によりて、国家権力の命令や、政党の決議によつて
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