政治的價値と藝術的價値 マルクス主義文學理論の再吟味
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)首肯《しゆこう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぶつかる[#「ぶつかる」は底本では「ぶつつかる」]
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       一

 コペルニクスは地動説をとなえたが、それを統一的理論によつて説明するためにはニュウトンをまたねばならなかつた。ところが今日の小學生は萬有引力の公式を知つている。だからコペルニクスよりも二十世紀の小學生の方がすぐれている!
 石造建築は木造建築よりも進んだ建築である。某々洋食店は石造建築である。法隆寺は木造建築である。だから、某々洋食店の建築は法隆寺の建築よりもすぐれている!
 これ等の論理には矛盾がない。だがこの理論からひき出された判斷は、必らずしも私たちを首肯《しゆこう》せしめない。その理由は説明するまでもなく、誰でもちよつと考えて見ればわかることである。
 ところが、次のような命題にぶつつかると問題はそれ程簡單ではない。
 ダンテの作品にはプロレタリア的イデオロギイが含まれていない。シンクレアの作品はプロレタリア的イデオロギイに貫かれている。だから、ダンテの作品は、藝術的にシンクレアの作品よりも劣つている!
 もしダンテがあまり古すぎるなら、これをトルストイとおきかえても、ユゴオとおきかえても、ストリンドベルヒとおきかえてもよい。
 然り! と或る人はこれに賛成して、答えるであろう。藝術作品の價値は、その作品のもつイデオロギイによつて決定される。プロレタリアの勝利のために利益をもたらすものにのみ藝術作品の價値がある!
 否! とある人は答えるであろう。イデオロギイは藝術作品の全價値を決定する要素ではない。そしてプロレタリアの勝利のために、貢獻するということは、藝術本來の性質とは沒交渉である!
 この二つの見方は、最近、マルクス主義文學理論と正統派文學理論とを尖鋭に對立させたのみでなく、マルクス主義文學理論の陣營内に於ても意見の分裂を生ぜしめている問題の焦點である。他の藝術の場合はしばらくおいて、文藝作品の評價の基準についての最近の諸議論は、悉くこの問題を中心としてまき起されているように思われる。
 かような簡單な問題が、どうして、それ程多くの議論を生むに至つたかは、多くの人々には全く不思議に思われるであろうが、それにも拘らずこれは事實なのである。
 私は、この不思議は、マルクス主義作家若しくは批評家は、彼がマルクス主義者であると同時に作家であり批評家であるという二重性のために存するのだと考える。マルクス主義者が文學作品を評價する基準は、あくまでも政治的、教育的の基準であり、作家若しくは批評家が文學作品を評價する基準は、藝術的基準である。この二つの基準を調節し、統一しようという試みに於てマルクス主義批評家若しくは作家の、新しい努力が生れ、そこにさまざまな意見の分裂が生れたのである。大衆文學の問題の如きもその一つのあらわれに過ぎない。
 マルクス主義は、單なる政治學説でも、經濟學説でもなくて一の世界觀である。若しそういう言葉を用いてもよいならば一の哲學である。從つて、それは、人間界の凡《あら》ゆる現象に對して、統一的な解釋、「見方」をもつべきものであることは無論である。だが、この「もつべきものである」ということは、現實に、完成された姿でそれを現在もつているということとはちがう。マルクス主義者の任務は、一の完成された法典を與えられて、凡《すべ》ての事象を、それに照らして判斷してゆく司法官の任務とは全く異つて、この法典を日常の鬪爭を通じて自らつくつてゆくことであるのである。文藝作品の評價というような問題については、無論私たちはまだ「原理はもうできあがった。あとはその應用のみである」という風な完全な法典を現在與えられておらぬし、また未來永劫そういうものの與えられる氣遣いはないであろう。それは單に、すぐれたマルクス主義者には、もつとほかに重大な仕事があるからという理由からばかりではなくて、問題の性質上與えられ得ないのである。
 ところが、ここに一群の人々がある。それ等の人々は、この政治的價値と藝術的價値とは二つの直線のように、全く重ね合わせることができると考えるのである。勝本清一郎氏はそれを「社會的價値」という名前で呼んでいる。そして社會的價値は同時に藝術的價値であり、社會的價値のほかに藝術的價値ありと思うのは一の迷妄であるとして、藝術的價値というものを全く解消してしまつた。藏原惟人《くらはらこれひと》氏も、この一元觀に關する限りに於いては勝本氏と同意見であるように思われた。
[#ここから小文字、2字下げ。冒頭のみ1字下げ]
(註) 勝本氏の三田文學に於ける、及び藏原氏の朝日新聞に於ける論文をさすのであるが、いまそれを參照しているひまがないので、私の讀みちがいであつたら、兩氏にお詫びする次第であるが、私のこの論文は兩氏の議論と獨立によまれても些しも理解を妨げるものではない。
[#ここで小文字、字下げ終わり]

 マルクス主義は一の世界觀ではあるけれども、最もさしせまつた目的としては、組織されたプロレタリアによるブルジョア政權の奪取という政治の一點に、プロレタリアの凡ての力が集中されることを要求する。だから文學、藝術もこの政治的目的を達するための手段とされねばならぬのである。文學作品は、この視角から見たとき、直接間接の宣傳もしくは煽動《せんどう》の手段としてしか意味がない。これは、政治的に全く正しい解釋である。だから、マルクス主義政黨の藝術に關するプログラムに於て、藝術作品の價値は、それがプロレタリアの勝利に貢獻する程度の大小によつて評價されねばならぬと規定されることは甚だ當然である。そして、黨は、黨員たる作家や批評家に、その趣旨を傳達し、また命令することも當然である。藝術は手段ではないとか、文學は宣傳の道具ではないとかいうことを、藝術や文學の立場から絶叫したつて無益である。プロレタリアの解放、勝利ということが絶對だからである。
 マルクス主義批評家にとつての作品評價の根本規準は、それ故に純然たる政治的規準である。マルクス主義作家及び批評家はまずこの規準を認めなければならない。彼がどんなにすぐれた批評家や作家であつても、この根本規準を拒絶する刹那に、彼はマルクス主義作家でも批評家でもなくなる。何となれば、彼は藝術家であり、批評家である以前にマルクス主義者でなければならぬからである。藝術的價値は、彼にとつては政治的必要に從屬せしめられねばならぬからである。
 實際の作品、たとえばチェホフの作品を例にとろう。チェホフがすぐれた作家であつたことはほとんど異論のない事實である。だが彼の作品は、革命の擁護という政治的必要からは、好ましからぬ作品であるかも知れぬ。若しそうである場合には、彼の劇がマルクス主義批評家によつて手嚴しく批難され、その上演がプロレタリア國家權力によつて禁止されることはあり得る。そしてこの禁止は、政治的に全く正當である。だが、この政治的形勢の變化によりて、國家權力の命令や、政黨の決議によつて、チェホフの作品の藝術的價値が、一夜のうちに消えてなくなつてしまうであろうか?
 否! と私は答える。また誰だつてそう答えざるを得ないと私は考える。チェホフの作品でなしに、たとえば、ボオドレエル若しくはエドガア・アラン・ポオの作品を例にとろう。これ等の人々の作品は、プロレタリアの勝利に貢獻するような何物をももつていないことは誰しも異存のないところである。それどころか、これ等の人々の作品には、一般に人類の幸福をおしすすめる拍車となるようなものすら何一つ見當らぬ。それにも拘らず、これ等の作家は、藝術的に何等價値のない作家であるといわれるだろうか? これ等の作家によつて描かれた頽廢性《たいはいせい》、不健康性はプロレタリアの鬪爭のためには無論のこと、一般に人類の向上進歩のためにすら反效果をもつものであるのに、私たちが、それ等の作品に、多かれ少なかれ藝術的價値を認めるのは何故であろうか?
 ここに一元論をもつては解釋しがたい謎がある。
 性急な讀者は、私がここで、藝術作品の政治的價値を否定、若しくは減弱しようとする意圖を抱いているために、こういう議論をするのだと考えるかも知れない。ところが、私の意圖はその反對である。私は文學作品の政治的價値を正しく認識するために、そしてその重要性を立證するために、先ずこれを藝術的價値から引きはなすのである。若しこれを一しよくたにして「社會的價値」という風呂敷の中にひつくるめてしまうことができるならば、プロレタリア文學とかマルクス主義文學とかいうものの特殊性は消滅してしまわねばならぬ。
 プロレタリア文學若しくはその別名或はその一部分としてのマルクス主義文學は、政治的規定を與えられた文學である。政治のヘゲモニイのもとにたつ文學である。この事實はあいまいにごまかしたり、糊塗したりしてはならない。藝術や文學から出發して、マルクス主義文學、プロレタリア文學を合理化しようとする企圖はきれいさつぱりと抛棄されねばならぬ。マルクス主義は藝術や文學を社會の現象として解釋することはできるが、藝術や文學はマルクス主義から命令され規定されて、政治的鬪爭の用具となる約束を少しももつていないからである。プロレタリア文學若しくはマルクス主義文學のみがそれをもつているに過ぎないのである。プロレタリア文學は藝術の立場ではなくて政治の立場から、文學論からではなくて政治論から出發してのみ合理化されるのである。
 この關係は、ルナチャルスキーの場合ですら、粉飾され、婉曲に言いあらわされ過ぎていると私は思うのであるが、若しこの關係が明白になれば、プロレタリア文學の存在理由が少しでも薄弱になると思うなら、それは甚だしい誤解である。というのは非常に簡單な理由からである。即ち、私たちは、階級と階級とが、抑壓者と被抑壓者という形で對立している社會をそのままにしておいて文學をたのしむよりも、一時文學そのものの發達には、多少の障碍となつても、階級對立を絶滅することを欲するからである。他の一切を犧牲にしても、切迫した政治的必要を滿すことを欲するからである。このことはブルジョア文學の發生の場合にも完全にあてはまる。ブルジョア階級が、その覇權《はけん》へむかつて進出したときの行進曲として、政治的文學をもつたこと、そしてブルジョア革命のまつ最中には、歴史的に見れば一時文學の衰頽期を現出したこと等が、それを語つている。ブルジョア文學は、愛と平和との中に、靜かな朗らかなクラリオネットの音の中に發育したものと思うのは大間違いで、血と鬪いとの中から戰いとられたものである。
 そして勃興期のブルジョア階級によつて、血によつて戰いとられた文學が、國民文學として、成熟期のブルジョア階級の手で、まるで、平和と愛とのシムボルのように祭られているのである。ゲエテ、シルレル、ユゴオ等々がそれである。勃興期のブルジョアジーは、一つの階級でなくて人類を代表していた。その故にこの時期の文學は人類の文學となり、國民の文學となり得たのである。というのはプロレタリアが、階級としてはつきりと對立して來たのは、そしてブルジョアジーがその階級的性質を露骨に示して來たのは、それ以後の出來事だつたからである。この意味に於いて、勃興期のブルジョア文學は、ブルジョアジーによりも寧ろより多くプロレタリアに屬している。(メーリンクのレッシング論はこの點で私の主張を裏づけるであろう。)序《つい》でに一言しておけば、日本の國民は國民的クラシックの名に値いするような作家や作品をもつておらぬ。紅葉、露伴、逍遥、蘆花、漱石、獨歩――これ等の作家のうちで、これこそ近代日本を代表する作家であるといえる人はない。それは偶然日本に天才的作家が現われなかつたことにもよるであろうが、いま一つは、日本のブルジョアジーが十分革命的階級としての鬪爭を
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