經過しないで、封建的勢力と妥協して、その庇護のもとに發達して來たからである。

       二

 プロレタリアの勝利のために貢獻するということが、マルクス主義文學の評價の基礎とならねばならぬことは上述の説明によりて明かになつたと思うが、マルクス主義文學も、文學である以上それだけでは不十分である。共産黨宣言が最もすぐれた藝術品であるとは言えないからである。
 そこで、この根本原理に附隨する、さまざまな小さい原理が必要になつて來る。たとえば、文學作品はただある政黨の綱領を解説するようなものではなくて、新しい何物かを創造していなければならぬとか、或は、或る觀念を露骨にあらわした作品はよくない作品であるとかいう種類の小さい原理がそれである。これ等の諸原理はマルクス主義にも、政治にも關係のない、一般に藝術そのもの、若しくは文學そのものに關する原理である。ここに於いてルナチャルスキーのテーゼは、そして一般にマルクス主義的文學の理論體系は、かくの如く二つの部分――政治的部分と藝術的部分とから成立しているのであることがわかる。しかもこの二つの部分はいい加減につきまぜてあるのではなくて、政治的部分が絶對上位に立ち藝術的部分は下位にたつという風に結合されているのである。この結合のしかたをかえることはマルクス主義文學の名に於ては許されないのである。
 このことは多くの實際問題に關聯している。たとえば、政治的原理と藝術的原理とを同じ平面に並べて、双方に同じ價値をもたせようと企てるとき、そこに折衷的理論が生れる。ある作家の或る作品は、鬪爭的精神も、階級的イデオロギイも稀薄であるが、藝術品としては立派な作品であることがあり得る。だがこの場合、如何なる藝術的な價値をもつてしても、マルクス主義文學である限り、鬪爭的精神の缺如の埋め合せにはならぬであろう。第一義的な、根本的なものを缺いている限り、それはマルクス主義文學の作品としては低く評價されねばならぬであろう。
 又或るマルクス主義者、たとえばトロツキーが、政治的には全く價値のない詩をつくつたとする。河上肇博士が、花か蟲かを見て政治と沒交渉な俳句を一句詠んだとする。この場合、トロツキーや河上博士がマルクス主義者であるがために、それ等の人の作品が、すべてマルクス主義文學の作品であると考えるのは全くあやまつている。況んや、或る作家が、マルクス主義的藝術團體に加盟したら、その作者の前日までの作品はすべてブルジョア文學作品であつたのが、その翌日からとんぼ返りして、悉くマルクス主義的文學作品になるなどと考えるのは全く子供らしい考えかたである。マルクス主義の立場からする文學批評は、常に、先ず政治的見地からされねばならぬであろう。この意味に於いて政治的意識の弛緩《しかん》は、マルクス主義文學作家にとつては致命的である。「イデオロギイはあやふやになつたけれども、技巧に於いてはすぐれて來た」というような評語は、マルクス主義作家にとつては少しも名譽ではない。それは一の藝術家としては、その作家が前進したことを意味するけれども、マルクス主義者としては後退したことを意味するからである。
 だが問題はそれだけでつきるのではない。以上はマルクス主義作品に對するマルクス主義批評の關係について言つたのであるが、マルクス主義批評は、マルクス主義作品ではない、廣く一般の文藝作品に對してどんな態度をとるべきであるか?
 嚴密に言えば、非マルクス主義作品の政治的價値は、マルクス主義的評價によれば零《ゼロ》であり、反マルクス主義作品の價値は負《ふ》になるわけである。たとえば「古池や蛙とびこむ水の音」という芭蕉の句は、マルクス主義的評價によれば、價値は零であると見なさねばならぬ。然るにすべての作家はマルクス主義者であるとは限らないのであり、マルクス主義の何たるかを全く解しない作家が澤山ある。
 この場合、マルクス主義批評家は、嚴密にその機能をはたそうと思えば、これ等の作品に對する評價をさし控えねばならぬ。そして嚴密には批評家という立場をすてて、分析者としての立場にたたねばならぬ。プレハーノフやレーニンの「トルストイ」評には、多分に(全くではないが)分析者としての姿が現われている。若しこの場合に、政治的な尺度をすててしまつて、ただの表現や形式の批評だけをするならば、その時、この批評家は、マルクス主義的批評をしているのではなくて、ただの文藝批評をしているわけである。
 更に一層進んで、反マルクス主義的思想を強くあらわした作品に對しては、マルクス主義批評家は、ただその作品にあらわされた思想と戰い、その誤謬《ごびゆう》を指摘し、克服することに全力をつくさねばならない。そしてそれ以外のことに關心する必要は少しもない。もしかかる反マルクス主義的作品の美に心ひかれ、その藝術的完成に恍惚とするのあまり、それを賞揚するなら、マルクス主義者はそこに退場して、ただの文藝批評家と交替したと解釋しなければならぬ。
 私の説明はあまりに機械的であり、非實際的であつたことを私は知つている。だが、それは、私が原則的な理論を説明したのだからに外ならぬ。原則を説明する場合には、最も典型的な、從つて最も極端な實例をあげるのが理解に最も都合がよいのだ。
 最後に私は、私自身の、所謂《いわゆる》「懷疑的」立場を便利上逐條的に明かにして大方の教えを乞うことにしよう。特に私の最も尊敬する藏原惟人、勝本清一郎の兩氏に私は教えを乞いたいのだ。
 先ず第一に現在のマルクス主義文學理論に對して、懷疑的態度をとつているという事實を告白しておく。(だが念のためにことわつておくが、私は何から何まで眞理を疑いたがるスケプチックではないのである。懷疑家という言葉が、スケプチックの譯語になつているので、誤解されることを恐れてこのことを一言しておくのである。)
 第二に、私はマルクス主義の一般理論に對しては私の知るかぎりでは(それは非常に狹いのであるが)懷疑的態度をとつているわけではない。私は、マルクス主義と文學作品の評價との關係の問題に對して懷疑的態度をとつているのである。ここでも私は一言しておきたい。というのはかような新しい、未解決な問題に對して疑いをもつことは、一般に理論家にとつて已むを得ないことであり、それは惡いことではなくて、却つて望ましいことであり、反對にあまりにはやく不完全なオーソドックスを定立することこそ避くべきことであると私は思うのだ。
 第三に私は前に長々しく述べきたつた政治的價値と藝術的價値との二元論を脱することができない。尤もここでもことわつておかねばならぬことは、「藝術的價値」という言葉であるが、これを私は神祕的な、先驗的なものだとは解してはいない。それは社會的に決定されるものだと信じている。ただマルクス主義イデオロギイや、政治鬪爭と直接の關係をもたぬと信ずるまでである。
 第四に、それにも拘わらず、私は文藝作品を批評するにあたつて、私の解釋するような意味の純然たる政治的評價にのみたよるわけにはゆかない。このことはマルクス主義の一般的理論の眞實性を認めた上でのことである。マルクス主義の眞實性を認めながら、私は非マルクス主義作品のもつ魅力にも打たれる。そしてその魅力に打たれる以上はそれをありのままに告白するより外はない。この點が最も重要なのであるが、若し私の言つたことが眞實であるならば、政治的價値と藝術的價値とは遂に「調和」し得ないと私は信ずるのである。兩者を統一する藝術理論はあり得ないと信ずるのである。マルクス主義文學理論は兩者の統一ではなくて、政治的價値に藝術的價値を從屬せしめ、これをそのヘゲモニイのもとにおかんとするものである。兩者は力で、權威で結合せしめられるのである。
 若しそうであるならば、私は、現在のマルクス主義藝術理論は、一つの政策論であり、政治論であつて、藝術論と名づくべきものではないと信ずる。だから、幾分寄木細工的な感ある現在のマルクス主義藝術論を解體して、政治的部分と藝術的部分とに還元し、これを明白に規定しなおす必要があると思うのである。もしマルクス主義藝術論が、完全な藝術論であるならば、ファシズム藝術論も、イムピリアリズム藝術論も同じ權利をもつて可能なわけである。久野豐彦氏が、マルクスの代りに、ダグラスをひつぱり出して來たことも亦當然認められねばならぬ。そして藝術の評價は、藝術と關係の少ない、千差萬差の尺度をもつて行われねばならないことになる。だが藝術評價の尺度が觀音様の手のように澤山あるということは、藝術作品の評價が不可能だということとかわりがない。
 これに反して、マルクス主義者は、政治的尺度によりて藝術作品の對社會、對大衆的效果を評價するのであるとすれば、この問題は至極簡單明瞭に解ける。これは政策論である。だが、人類の幸福のための政策論を、藝術の名によつて拒むことはできない。
 これを要するに、マルクス主義藝術運動は、藝術に關する定義の塗りかえや、藝術的價値と政治的價値との機械的混合によりて行われるわけには決してゆかない。それは飽くまでも政治のヘゲモニイのもとに行われる運動であり[#「であり」は底本では「でり」と誤植]、政治によりて藝術を支配する運動である。この關係は政治と藝術との辨證法的統一というようなあいまいな言葉で説明してうつちやつておくべきものではない。先ず一應兩者を區別し、それを當然そうであるべき關係におかねばならぬ。
 從つて、マルクス主義文學は――少なくもプロレタリアの勝利のために貢獻するという意味に於けるマルクス主義文學は――一定の時期において、その特殊性を自然に失つてしまうべきものであることは自然の理である。そのためにマルクス主義文學の價値が減弱するものではないことは、もう一度繰り返していうが、勿論であるけれど。[#18字下げ、地より2字あきで](昭和四年三月)



底本:「日本現代文學全集69 プロレタリア文學集」講談社
   1969(昭和44)年1月19日初版発行
入力:田中亨吾
校正:大野裕
2000年10月20日公開
青空文庫作成ファイル:
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