たとえば「古池や蛙とびこむ水の音」という芭蕉の句は、マルクス主義的評價によれば、價値は零であると見なさねばならぬ。然るにすべての作家はマルクス主義者であるとは限らないのであり、マルクス主義の何たるかを全く解しない作家が澤山ある。
この場合、マルクス主義批評家は、嚴密にその機能をはたそうと思えば、これ等の作品に對する評價をさし控えねばならぬ。そして嚴密には批評家という立場をすてて、分析者としての立場にたたねばならぬ。プレハーノフやレーニンの「トルストイ」評には、多分に(全くではないが)分析者としての姿が現われている。若しこの場合に、政治的な尺度をすててしまつて、ただの表現や形式の批評だけをするならば、その時、この批評家は、マルクス主義的批評をしているのではなくて、ただの文藝批評をしているわけである。
更に一層進んで、反マルクス主義的思想を強くあらわした作品に對しては、マルクス主義批評家は、ただその作品にあらわされた思想と戰い、その誤謬《ごびゆう》を指摘し、克服することに全力をつくさねばならない。そしてそれ以外のことに關心する必要は少しもない。もしかかる反マルクス主義的作品の美に心ひか
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