これ等は大衆小説としては殆んど皆失敗してゐる。尤も中にはラフアエル・サバチニの歴史小説のやうな例外がないわけでもないが。
四
以上、私はマイケル・ジヨセフの議論をかなり長く引用した。文学論として、(若しこれを文学論といへるなら)およそこれ位プロザイツクな文学論はまたとないであらう。彼は文学作品を全く商品として観察してゐるのである。ところで文学作品を商品として見る限り、問題とされる価値は商業的価値のみである。そして商業的価値を構成する要素と芸術的価値を構成する要素とは、以上述べたところによりて、全く別箇のものであることが容易に看取し得られるであらう。
今日の大衆文学とは、この商業的価値の最も大きい、若しくは商業的価値の最も大きかるべきことを目的として製作された小説であるといつても大過ないであらう。
勿論、文学の大衆性の問題はフオルムの問題と全然無関係であると私は主張するのではない。ことにプロレタリア大衆文学の問題は、それ自身、商品としては売られないで宣伝用として頒布されるやうな場合も予想できるので、商業的価値をあまりに重要視することはできないであらうが、
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