言葉が用ゐられてあつた。しかし、その後青野季吉氏の批判に答へた「目的意識の昇華」といふ小論の中では、簡単にではあるがはつきりとこの点を述べておいた筈であるに拘らず、その後にあらはれた批判者たちも、依然として青野氏と同様に自然発生的プロレタリアの文学とマルクス主義文学とを混同して議論を展開してゐるのである。
 私はプロレタリアの間から自然に発生する文学作品を、それがたとひマルクス主義的イデオロギイに浸透されてゐるものもあるとしても、マルクス主義文学と呼ぶことを欲しない。何となれば、それは、マルクス主義者の政治的目的[#「政治的目的」に傍点]を意識されずに書かれたものだからである。それはちやうど十八世紀の啓蒙派の作品や、十九世紀のロマンチツク初期の作品は革命的文学であるけれども、同じブルジヨア的イデオロギイをもちながら、十九世紀中葉以後のブルジヨア作家の作品を革命的文学と呼ぶのが不適当であるが如くである。尤もこの例は適当ではない。当時のブルジヨアの意識は全人類的意識の外観を帯びてゐて真に階級的ではなかつたからだ。真の階級意識はプロレタリアと共にはじまつたからだ。
 広義に於けるプロレタリア
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