規定されてゐるし、又さうされねばならぬことが証明してゐる。たゞことによると私が両氏と異つてゐるであらう点は、志賀直哉の作品にも中野重治の作品にも、歴史的価値ではない、アクチユアルな芸術的価値を認め、その芸術的価値はマルクス主義批評家の場合にも一応は取り上げられ、然る後、マルクス主義文学の政治的ヘゲモニイの故に、「涙をのんで」志賀氏の作品はすてられねばならぬと考へる点にある。ついでに言つておくが、大宅氏は私に対して、実際の作品批評の場合に私がどんな基準をとるかと詰問揶揄されたが、私は大体今述べたやうな基準をとるし、これは私がマルクス主義者でないとしても(実際、私は少なくともどんなマルクス主義団体の紀律にも服してゐないといふ点でマルクス主義者では決してないことを承認する。せい/″\マルクス主義の真実性を認めるといふ意味での同伴者でしかないことを認める。)凡ての進歩的批評の基準であると信ずる。たゞ或る作品のイデオロギイの稀薄である場合は芸術性のみを批評の対象とする場合もあり、その逆の場合には芸術性がすぐれてゐればゐる程、深刻に批判しなければならぬ場合があること、並びに私が理想として信じてゐる
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