てはゐないのと同じである。
ところが以上の事柄を検討して来た大宅壮一氏は「これを要するに氏(平林)に従へばマルクス主義文学理論は決して最も正しい文学理論でないばかりでなく、厳密には一種の文学理論でさへあり得ない」といふ結論をひき出される。この途方もない誤解もしくは曲解のしかけ[#「しかけ」に傍点]はどこにあるかは誰にだつて明白である。といふのは氏は部分と全体とを混同してゐるのだ。私はマルクス主義者が、文学の歴史を書きかへたあの光輝ある事実、史的唯物論による文学史の改造を決して低く評価するものではない。或る意味では文学史家としてもテエヌよりもプレハノフの方を偉大とさへするに躊躇しない。たゞ私が問題としたのは、最近に、(日本ではこの三四年来、ロシヤでもせい/″\十二三年来)新しく勃興したマルクス主義文学――意識的プロレタリア文学の作品を如何に評価するかといふ非常に限られた問題だつたのである。そしてこの問題に関連する限りの理論だけしか吟味もしなければ、私自身提出もしなかつた。マルクス主義文学を政治的部分と芸術的部分とにわけたとき、私は芸術的部分のうちへ当然史的唯物論の解釈を入れて考へてゐた
前へ
次へ
全45ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング